2024年2月26日(月)
戦前の日本共産党員、伊藤千代子さんについて
長野懇談会 志位議長が語る
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日本共産党の志位和夫議長は24日、長野県上田市で開かれた「日本の真ん中から志位さんと希望を語るわくわく懇談会in信州」で、同県諏訪市出身で、戦前、天皇絶対の専制政治の迫害で命を落とした日本共産党員、伊藤千代子さん(1905~29年)について語りました。その部分を紹介します。
天皇絶対の専制政治のもとでの不屈のたたかい
戦前の日本は、天皇絶対の専制政治の国でした。日本共産党は「国賊」「非国民」と迫害されました。悪いことをやったからではないのです。命がけで「国民主権」の国をつくろう、「侵略戦争反対」と主張したために迫害されたのです。
多くの先輩たちが迫害で命を落としました。『蟹工船』で有名な作家の小林多喜二、経済学者の野呂栄太郎も、迫害と拷問で命を落とした日本共産党員であります。
この長野県上田市出身の日本共産党員に川合義虎さん(1902~23年)がいます。日本共産青年同盟の初代委員長をつとめました。彼は、関東大震災の時に懸命の救援活動をやるのです。そこで憲兵隊につかまって無残に虐殺されました(亀戸事件)。21歳です。上田市にはそういう大先輩がいることを、まずご紹介したいと思います。
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豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱
迫害で命を落とした先輩たちのなかには多くの若い女性党員もいました。その一人として、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)出身の伊藤千代子さんについてお話をさせていただきたいと思います。
千代子さんは諏訪高等女学校で学び、歌人として大きな足跡を残した土屋文明さん(1890~1990年)が校長をつとめた自由な雰囲気のもと、情熱的に書物を読み、豊かな知性と感性を身につけていきます。その後2年間の小学校の代用教員をへて、仙台の尚綗(しょうけい)女学校に進み、東京女子大学に編入します。そこで社会科学研究会を結成し、マルクス、エンゲルスの古典などを熱心に読んでいくのです。たいへん豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱を持った女性だったと伝えられます。そのなかで日本共産党に入党し、党中央の事務局で党の方針を印刷するためのガリ版を切る仕事にとりくみました。
千代子さんは、1928年3月15日の大弾圧で検挙されます。ひどい拷問を受けました。市ケ谷刑務所の待遇は不衛生で非人間的なものでした。さらに信頼していた夫が、天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加する。検事は、毎日、千代子さんを呼び出して、夫の主張への同調を迫りますが、彼女はきっぱり拒否してがんばるのです。しかし衰弱がすすみ、29年9月、亡くなりました。24歳でした。
「こころざしつつたふれし少女よ」
よく知られていることですが、歌人として大きな業績を残した土屋文明さんは、諏訪高等女学校時代の千代子さんの恩師でした。千代子さんに対してたいへんに強い印象をもっていて、1935年、歌誌『アララギ』に「某日某学園にて」と題して6首の短歌を詠みます。そのなかに、「こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ」という短歌があることはご存じの方も多いと思います。
1935年といいましたら侵略戦争と暗黒政治の真っただ中で、その時代に、伊藤千代子さんについてこのようにうたった土屋文明さんは、ほんとうに立派な方だと思いますが、恩師の魂をゆさぶらずにはおかなかった生き方を千代子さんはしたのだと思います。
獄中で迫害を受けながら、仲間を励まし続けて
獄中で千代子さんは、ひどい迫害を受けながら、仲間を励まし続けました。東京女子大の社会科学研究会で千代子さんの後輩だった塩澤富美子さん(1907~91)という方がいらっしゃいます。塩澤さんは、野呂栄太郎と結婚し、つらい戦前を生きのびて、戦後、医師・作家として活動し、野呂栄太郎の業績を今日に伝える仕事をされた方であります。
塩澤さんも市ケ谷刑務所に送られ、そこで千代子さんと出会います。塩澤さんが入れられた監房の外から彼女の名前を呼ぶ声がしたので、獄窓から外をみおろすと、千代子さんが、監獄の庭で、塩澤さんのいる監獄の窓を向いてほほえんで立っていました。千代子さんが、「元気? 今何を勉強しているの、『資本論』は4月まで入ったのに今度禁止になってしまったの」と声をかけたとたんに、看守が制止して、千代子さんを連れ去った。それが、千代子さんの姿を垣間見た最後だったと塩澤さんは回想しています。
塩澤さんは、千代子さんへの強い思いを胸に抱いて、戦後ずっと生きていくわけですが、1979年、千代子さんが亡くなってからちょうど50年後に、「追憶」と題する歌を詠みつづっています。これを読んで、たいへんに胸を打たれました。一部を紹介したいと思います。
市ケ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり
花の下に佇(たたず)みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後となりぬ
きみにより初めて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく
ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る
身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二四歳
君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ
50年後に、この歌を詠むのです。
93歳の土屋文明さんが書きつづった歌
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戦後、塩澤さんは、土屋文明さんのもとを訪ねています。そこで塩澤さんは、文明さんに、千代子さんはこういうがんばりをしたと話すのです。千代子さんの実像を知った文明さんが、塩澤さんの願いにこたえて、1983年のことなのですが、当時、93歳、やや利かなくなった腕をふるわせながら、こん身の力を込めて、新たな歌を詠む心境で書きつづったと言われるのが、3首の歌でした。
これは文明さんの直筆で3首の歌が書かれた色紙――わが党の党史資料室に保管されているものの写しです。歌題は、「某日某学園」ではなく「伊藤千代子がこと」になっています。
土屋文明さんが、暗い時代に千代子さんをうたい、93歳にしてこうした歌を書きつづった。これは日本の近代文学史の光彩ある1ページではないかと思います。土屋文明さんという大きな歌人、あるいは塩澤富美子さんのような後に続いた人々に、本当に鮮烈な感動を与えた生き方を貫いたのが伊藤千代子さんだったということを紹介したいと思います。
身をていして訴えた主張は、日本国憲法に実った
伊藤千代子さんなど私たちの先輩たちが身をていして訴えた主張は、戦後の日本国憲法に実りました。「主権在民」が書き込まれました。基本的人権、恒久平和主義も明記されました。これは戦前の日本共産党の不屈のたたかいが正しかったことを証明したものだと思います。信州は、こうしたたたかいを担った先輩たちを生み出した土地であることを誇りとして、後世に生かしていただきたいと心から願うしだいであります。