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2021年9月7日(火)

主張

サ条約・安保70年

問われる米国言いなりの根源

 サンフランシスコ平和条約と旧日米安保条約が1951年9月8日に締結されてから、あすで70年です。両条約によって日本は形式的には独立国になったものの、実質的には米国の従属国の地位に置かれました。サ条約に米国による沖縄占領支配と日本本土での米軍駐留継続を許す規定が設けられ、旧安保条約で占領中に各地で造られた主要な米軍基地がそのまま存続することになったからです。多くの国民が今もなお、世界でも異常な米軍基地の重圧に苦しめられています。その根源をたどれば両条約に行き着くことを忘れてはなりません。

国民の選択ではなかった

 サ条約は日本が第2次世界大戦でたたかったすべての国とではなく、米国の世界戦略に反対しない国とだけ結んだ単独講和条約でした。カイロ宣言(43年)などが明記した「領土不拡大」という戦後処理の大原則に背いて沖縄を日本から引き離し、永続的な米軍統治を可能にし、千島列島を放棄させてソ連の不法占領を追認するなど大きな問題を持つものでした。

 中でも重大だったのは、日本占領の目的を達成すれば占領軍は直ちに撤収するとしたポツダム宣言(45年)に反し、米軍駐留の継続を認めたことでした。これに基づき旧安保条約は結ばれました。

 サ条約、とりわけ旧安保条約は秘密交渉で準備され、締結されました。サ条約の草案が公表されたのは講和会議のわずか2カ月前で、旧安保条約は調印の日まで国民には完全に隠されました。

 旧安保条約の米側調印者はアチソン国務長官ら4人に対し、日本側は全権代表6人のうち吉田茂首相ただ1人でした。のちの米国務省の秘密報告(57年1月22日付)は「安保条約の条文は…調印までは、ごくわずかの日米両政府関係者以外、誰にも知らされていなかった。もちろん、一般の国民はその内容を知る由もなかった。吉田首相だけが日本代表として調印したのも、残りの日本側全権使節は条約の内容を知っていなかったからだ」と記しています(『米政府安保外交秘密文書 資料・解説』)。

 当時の日本は占領軍によって戒厳令同然の状態にあり、デモも集会も禁止されていました。国会でも、日本共産党の川上貫一衆院議員が「ポツダム宣言に基づく全面講和」を求める演説をして当時の保守政党により除名処分にさせられるなど民主的審議は封じられました。両条約は問題点がほとんど明らかにされないまま、51年11月18日に国会で承認が強行され、翌52年4月28日に発効します。それが日本国民の選択の結果でなかったことは明白な歴史の事実です。

廃棄求める流れを大きく

 今、米軍の低空飛行訓練など無法行為の停止や沖縄県名護市辺野古の新基地建設の中止、憲法違反の集団的自衛権行使を可能にした安保法制の廃止などのため、安保条約への立場の違いを超えて、共同のたたかいを発展させることが緊急の課題になっています。

 60年に改定された安保条約は米軍と自衛隊との共同作戦条項を盛り込み、日本を米国の戦争に巻き込む対米従属的な軍事同盟条約に強化され、今日に至っています。異常な米国言いなり政治をただし、平和で独立した日本を実現するため安保条約廃棄の流れを大きくしていくことが同時に重要です。


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