2020年8月10日(月)
長崎平和式典
被爆者代表の「平和への誓い」
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9日の長崎平和式典で、被爆者代表として深堀繁美さんが読み上げた「平和への誓い」は、次のとおりです。
原爆が投下された1945年、旧制中学3年生だった私は、神父になるため親元を離れ、大浦天主堂の隣にあった羅典神学校で生活をしていました。中学校の授業はなく、勤労学生として飽の浦町の三菱長崎造船所で働く毎日でした。
8月9日、仲間とともに工場で作業をしていた時、突然強い光が見え、大きな音が聞こえました。近くに爆弾が落ちたと思い、とっさに床に伏せましたが、天井から割れた瓦が落ちてきたので、工場内にあるトンネルに逃げ込みました。夕方になり、トンネルを出て神学校に帰りました。夜遅くには浦上で働いていた5人の先輩が帰ってきましたが、1日もたたずに全員が亡くなりました。
翌10日の昼には、浦上の実家へ戻ることを許されたので、歩いて帰ることにしました。途中には、車輪だけとなった電車や白骨が転がっており、川には真っ黒になった人が折り重なっていました。生きているのか死んでいるのかもわかりません。時々「水…、水…」という声が聞こえますが、助けることはできません。浦上天主堂は大きく崩れ、その裏手にあった実家も爆風で壊れていました。父は防空壕(ごう)の中の兵器工場で働いていたので助かりましたが、姉2人と弟と妹は亡くなっていました。しかし、たくさんの死体を見てきたためか、不思議と涙も出ません。今思えば、普通の精神状態ではなかったのだと思います。
まちには亡くなった人を焼くにおいが、しばらく立ち込めていました。何のけがもない人が次々に亡くなっていく現実を目の当たりにすると、次は自分が死んでしまうのではないかという恐怖感が、なかなか振り払えなかったことを覚えています。このような思いは、もう二度とどこの誰にもしてほしくないと思います。
昨年11月、「平和の使者」として、フランシスコ教皇が長崎を訪問されました。最初の訪問地、爆心地公園に足を運んだ教皇とともに原爆犠牲者に献花した、あの時の場面がよみがえります。そして、39年前に広島でヨハネ・パウロ二世教皇の「戦争は人間のしわざです」との印象深い言葉を、より具体化し、核兵器廃絶に踏み込んだフランシスコ教皇の言葉に、どんなにか勇気づけられたことでしょう。さらに、「長崎は核攻撃が人道上も環境上も破滅的な結末をもたらすことの証人である町」とし、まさに私たち長崎の被爆者の使命の大きさを感じる言葉をいただきました。
また、「平和な世界を実現するには、すべての人の参加が必要」との教皇の呼びかけに呼応し、一人でも多くの皆さんがつながってくれることを願ってやみません。特に若い人たちには、この平和のバトンをしっかりと受け取り、走り続けていただくことをお願いしたいと思います。
私は89歳を過ぎました。被爆者には、もう限られた時間しかありません。今年、被爆から75年が経過し、被爆者が一人また一人といなくなる中にあって、私は、「核兵器はなくさなければならない」との教皇のメッセージを糧に、「長崎を最後の被爆地に」との思いを訴え続けていくことを決意し、「平和への誓い」といたします。