2019年12月30日(月)
宮古島 陸自ミサイル基地建設強行2カ月
戦争の島にさせない 強まる住民の思いと決意
沖縄
沖縄県宮古島市への陸上自衛隊によるミサイル基地、弾薬庫建設強行から2カ月以上がすぎました。住民の「平和な島にミサイル配備、弾薬庫はいらない」との思いは強まるばかりです。51年前に米軍機の墜落・爆発事故を目撃した下地守さん(74)=農業=はいま、弾薬庫予定地で抗議活動を続けています。その思いは…。(山本眞直)
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下地さんの自宅は、弾薬庫予定地の鉱山跡地(宮古島市保良=ぼら)までわずか250メートルしか離れていない保良集落にあります。
「陸自の宮古島駐屯地のミサイル部隊がミサイルを発射すれば、弾薬庫は“敵”から真っ先に反撃され、保良の住民はひとたまりもない」
絶対安全はない
弾薬庫建設について防衛省沖縄防衛局は「火薬取締法をクリアしており安全だ」と強弁しています。下地さんは「絶対安全はない。事故は必ず起きる。弾薬庫だけではない、運搬中にも起きる」と指摘します。
下地さんにはある体験があります。51年前の1968年11月19日午前4時すぎに、沖縄市の米軍嘉手納基地で発生した世界最大級のB52戦略爆撃機の墜落、爆発炎上事故です。当時は米軍牧港補給基地(浦添市)で警備員として働いていました。
当日は夜勤で、ゲートの警備ボックスで朝の交代を待っていたときのことです。ドーンという地響きのようなすごい音のした後、北の空にキノコ雲があがり、真っ赤な炎が渦巻きました。その光景に口をついて出たのが、「沖縄はもう終わりだ」。頭に浮かんだのが嘉手納基地の北側に広がる知花(ちばな)弾薬庫でした。
米軍占領下の知花弾薬庫では毒ガス兵器や核兵器が貯蔵されていると県民の多くが疑っていました。下地さんは、その知花弾薬庫で爆発事故が起きたと思い、「沖縄は終わりだ」と観念したと言います。実際、B52は同弾薬庫に250メートルまで接近していました。
「まるで戦場だ」
当時、米軍はベトナム侵略戦争で、海兵隊員とともに弾薬からトイレットペーパーまで大量の軍需物資を連日、沖縄から運んでいました。墜落したB52には弾薬が満載されており、それらが次々に爆発。被害は乗員にとどまらず、強い爆風で事故現場から3キロ離れた消防署の窓枠が吹き飛び、爆発物の破片が民家に飛び散るなどで159戸が被害を受けました。住民らは口々に叫びました。「まるで戦場だ」
しかし米軍は翌日もB52で、沖縄からベトナムに兵員と弾薬を大量空輸したのです。
いま宮古島では、鉱山跡地で弾薬庫建設の造成工事のために大型ブルドーザーなどの重機が砂煙をあげています。鉱山入り口に林立し、風にはためく「宮古にミサイル基地、弾薬庫はいらない」ののぼり。下地さんの目に、力がこもります。
「こんな環境のよい島を、戦争を継続する意思である弾薬庫など基地だらけにされたら、島の未来は見えない。許されない」