2019年8月7日(水)
広島の朝、つなぐ命
核兵器のない世界を
被爆74年 市民の思い
原爆が投下されて74年の広島。6日、未明から被爆者や市民が平和記念公園を訪れ、原爆で亡くなった人々を追想し、核兵器のない世界をと誓いました。(岡本あゆ、笹島みどり)
原爆ドームの前で記念撮影をしていた女性(90)=大阪市=は、女学校卒業の年に終戦を迎えました。「戦争の時代は暗くて、本当にいやな時代だった。平和のために、ここに来ています」と語りました。
中学校の数学の教員をしていた男性(74)=兵庫県宝塚市=は、恩師から「君は、終戦の年に生を受けたのだ。広島の原爆の地には、一度は足を運びなさい」と諭され、20歳のときに初めて訪れました。
「妻は広島出身ですが、あの土の下、あの川の底にどれだけの人の命が埋まっているかを知っているんですね。その上を歩けないといって、一度も故郷に戻らずにいます」
午前7時台。原爆ドームの前で、十数人の女子高生が「長崎高校生1万人署名」を集めていました。この署名は、長崎県の平和市民団体による高校生平和大使募集をきっかけに集まった高校生が、核兵器廃絶と平和な世界の実現をめざそうと取り組んでいるものです。
そのうちの1人は、「戦争をなくすことや核抑止力の問題は、とても難しい。自分ができることは、今はこの署名集めです。より多くの人の声を集められればと思っています」と話しました。
原爆ドームから約100メートルの「動員学徒慰霊塔」の前で女性(89)が手を合わせていました。
「当時15歳で、暁部隊(旧陸軍船舶司令部)のあった金輪島(かなわじま=広島市南区)の工場に学徒動員されていました。私たち3年生は島にいましたが、市内に動員されていた2年生は犠牲になりました」
動員された約6300人の生徒が原爆で命を落としました。
「投下直後、女の子は帰るなといわれて、金輪島の洞窟の中ですごし、次つぎに運ばれてくるけが人の介抱をしたのを覚えています。治療らしいことは何もできませんでした」
「学徒動員を追悼する碑」に線香を供えた女性(83)は、学徒動員されていた姉と、原爆ドーム近くで仕事をしていた父親を原爆で亡くしました。父親は、閃光(せんこう)を受け、体半分がドロドロだったそうです。
「武器をつくる人は、8月6日の朝にこの場所に来てほしい。たくさんの人が川の水を飲んで死んでいったんです」といって、原爆ドームの横を流れる元安川(もとやすがわ)を見やりました。
広島カープの選手のバッジを帽子につけた女の子(8)が、父親(48)と手をつないで平和記念公園を訪れました。「昔、ここで起こったことを聞いて、ご先祖にあいさつしたいと思った」といいます。「核兵器はつくってはいけないけど、つくっている国があるから心配だと思う」
父親は、「入市被爆した私の祖父もすでに亡くなっています。難しいと思いますが、(原爆の)話はして伝えていきたいです」と語りました。