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2022年10月1日(土)

記者座談会 「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」を読む(2)

不屈性を保障したものは

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(写真)1948年の顕治と百合子(『写真集宮本百合子』から)=田村茂撮影

天皇絶対との対決が分水嶺

  前回は全体の特徴について語り合ったが、ここからは各章ごとに感想を出しあいたい。

  第1章は、「不屈性」だね。不屈性といっても「ただやみくもに頑張る」のではなく、という言い方が面白いが、「科学の立場で社会発展の先々の展望を明らかにする先駆性と一体になった不屈性」が特質だという点が重要だね。

  その「先駆性」こそが不屈性を保障したものだし、それが何だったのかを解明した論立てになっていると思った。

  戦前でいえば、絶対主義的天皇制への態度だね。「日本共産党の誕生は、日本社会の発展の最大の障害物であった天皇絶対の専制政治の変革に、科学的社会主義の立場に立って、正面から取り組む政党が、日本に初めて現れたという歴史的意義をもつ」というくだりが印象深い。そうであってこそ、どんな弾圧にも屈せずに侵略戦争反対や国民主権実現の旗を掲げ続けられたのだと思う。

  まさにそれが分水嶺(ぶんすいれい)だったことは、「社会主義」や「財閥打倒」を唱えながら、天皇制には従順だった政党が、「大政翼賛会」に合流して侵略戦争を推進した事実でも明らかだね。

女性党員の誇るべきたたかい

  戦前、日本共産党が女性解放の旗を先駆的・徹底的に掲げた党だったということに多くの感想が寄せられるなど、反響が大きいね。

  治安警察法で女性の政党加入が禁じられていたことは初めて知ったよ。調べてみると、第5条で「左に掲ぐる者は政事上の結社に加入することを得ず」として、軍人、警察官、教師などと並んで「女子」が入っていた。「この時代に、日本共産党は、多くの女性党員をもち、女性党員の誇るべきたたかいを歴史に刻んだ唯一の党だった」という指摘にとても感動した。

  講演では、伊藤千代子、高島満兎、田中サガヨ、飯島喜美という、24歳で命を落とした女性党員の名前があげられているけれど、その懸命なたたかいは映画にもなったし、歌にも詠まれた。

大きかった党の影響力

  反共的論者は、日本共産党が戦前、公然と活動できたのはわずか7年で、「相次ぐ弾圧で自壊した」などといって、“社会的影響力はなく、敗北の歴史だ”などと描くが、それは全く違うということも示された。

  「赤旗」(せっき)の部数の多さも驚くが、野呂栄太郎らの「日本資本主義発達史講座」が中央省庁の役人の間で広く読まれていたなどの事実は面白いね。だからこそ、鶴見俊輔さんが、当時の知識人にとって日本共産党は自分が時流にどれだけ流されたのかを知る「北斗七星」だといったんだね。

互いに高めあう顕治と百合子

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(写真)宮本顕治・宮本百合子・十二年の手紙

  宮本顕治とその妻で著名な作家・宮本百合子の関係の描き方にも新鮮さを感じた。顕治の側が一方的に援助・助言するというのでは決してなく、相互的なものだったのがよくわかった。

  顕治の「援助や助言」のあとに、「同時に、強調されなければならないのは、顕治の獄中・法廷闘争は、百合子の最大限の支援・参加なしにはありえなかったということ」というくだりが重要だね。百合子さんも戦後、“自分は獄中闘争に一緒に参加したんだ”と語っていたそうだ。

  志位さんが「最大限の支援・参加」という言葉を使っているのはそういう意味か。

  たしかに2人の関係には時代的制約もあったとは思うよ。でも、「人格を互いに尊重しあい、互いに支えあう2人の姿は、当時の時代的条件のもとで、抜きんでたものといえるのではないでしょうか」と志位さんがのべているのはそのとおりだと思う。

  評論家・加藤周一さんの「宮本さんは反戦で日本人の名誉を救った」が紹介されているが、実はこの追悼の辞は、百合子の「歌声よ、おこれ」で始まり、反戦を貫いたのが2人の共同事業だったととらえて書かれている。そこからも相互的な関係がわかるね。

  加藤さんでいえば、1961年に発表した論文が紹介されているのが新たな発見だった。戦後、憲法が約束したものを綱領に書き込んだ政党は「非合法政党としてしか存在しようがなかった。その政党とは日本共産党である」というくだりは、戦前の苦難の歴史が憲法に実ったことを見事にいい尽くしていて、ぐっときた。

対米従属打破を戦略課題に

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(写真)祖国復帰要求県民総決起集会での瀬長亀次郎さん=1966年4月28日

  戦後、日本共産党の不屈性を保障したものは、アメリカの対日支配の打破を掲げたことだね。講演では、1957年から61年の「綱領論争」の焦点を紹介しながら、「とりわけ、わが党が、アメリカの対日支配の打破を革命の戦略的課題にしっかりとすえたことは、その後のわが党の不屈のたたかいの最大の支えになった」と指摘している。

  アメリカの対日支配とのたたかいの最前線でありつづけたのが沖縄だ。志位さんが沖縄の不屈のたたかいをとりあげて詳しく語ったのも、そうした意味合いからじゃないかな。

  なかでも、来年日本共産党との合流50年となる沖縄人民党と、そのリーダーで後に日本共産党副委員長を務めた瀬長亀次郎さんのたたかいの話は感動的だ。志位さんは、二つの点を強く感じたとして、(1)沖縄県民が島ぐるみで団結すれば、現状は必ず変えられるという強い信念、(2)沖縄人民党の不屈のたたかいの根本には、日本と沖縄の前途を科学の力で見通す先駆性があったとのべているが、後者はこれまで十分には強調されてこなかったように思う。

  瀬長さんといえば「不屈」の政治家だが、その不屈さを支えた「科学の力」を、「祖国復帰」「サンフランシスコ条約第3条撤廃」「日米安保条約廃棄」の三つを先駆的に掲げ、統一戦線のスローガンにしていった意義を語っているくだりは圧巻だ。

  「祖国復帰」は実現し、沖縄を日本から永久に分離するとした「サ条約第3条」は“立ち枯れ”にした。ある意味、三つのうち二つまで実現したことで、歴史が決着をつけた面がある。復帰にあたって琉球政府が日本政府にあてた「建議書」に「基地を必要とする安保には必然的に反対せざるを得ない」と明記されていたという話も紹介されている。

  その先駆的役割のなかで、志位さんが日本共産党の61年綱領との「理論的な響き合い」があったことを紹介していることも印象深い。57年に日本共産党綱領草案が沖縄に入ってきたとき、瀬長さんは「むさぼるように読んだ」というが、当時は米軍全面占領下で草案が載った『前衛』を入手することも困難だったといわれているから、「むさぼるように」というのは実感だったと思う。

  宮本顕治さんは、合流の際に「人民党は、複雑な戦後の情勢の中で、科学的社会主義の立場を具体的にこなして立派にたたかってこられた」と語ったそうだが、日本共産党との合流は「歴史的必然」だったのだなと改めて思った。

  沖縄のたたかいをみると、対米従属打破、その根幹である日米安保条約廃棄の旗を掲げることの重要性がよくわかる。講演では、そこに光をあてながら、綱領への攻撃の一つの焦点が「現実的な安全保障政策に転換せよ」という安保条約容認を迫る議論にあることを指摘し、それへの回答を示したことが重要だ。

  ロシアによるウクライナ侵略を契機にした大軍拡・改憲の動きと一体に、安保政策転換を迫る攻撃が強まったわけだが、「日米同盟」を絶対化して「軍事対軍事」の悪循環に陥るのか、それとも日本共産党の外交ビジョン=徹底した対話による平和創出か、「どちらが現実的か」と迫っているが、答えは明瞭だと思う。

  日米安保の是非を超えた共闘を発展させつつ、安保条約廃棄が国民多数の声となるよう独自の取り組みを推進するとの決意を語り、党綱領への攻撃にたいする「私たちの断固たる回答」とするとした点は肝に銘じたい。

 (つづく)


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