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2022年6月28日(火)

きょうの潮流

 私は3度、被爆者になった―。木戸季市(すえいち)さんがよく口にしてきた言葉です。日本被団協の事務局長として、核兵器禁止条約の第1回締約国会議にも出席しました▼はじまりは1945年8月9日、長崎の爆心地から2キロの自宅前で「光を浴びた」とき。5歳でした。飛行機の音がして空を見上げた瞬間に「ピカドン」。そこでみた、人間の死として受け入れられない光景は今も忘れられません▼2度目は、あの日の写真をみたとき。米国による原爆報道の規制が解かれ、当時のグラフ誌に広島・長崎の写真が載りました。そのとき初めて自分が被爆者だということを自覚、同時に不安に襲われたといいます▼被爆を明かさなかった時期も。しかし記憶ある最後の世代として、何かやらなければならないときが来るだろうと。そして91年に岐阜で被爆者の会を結成し、「被爆者として生きる」ことを決意しました。3度目のときでした▼訴えつづけた核なき世界。実現に向けた締約国会議は、核の共有や核抑止論を「使用される危険性を高めている」と厳しく退けました。それは木戸さんをはじめ被爆者運動に人生をささげてきた人びとに共通する思いです▼核を持つ国との橋渡し役をいいながら会議に出ることさえ拒んだ岸田首相。採択されたウィーン宣言は立ちはだかる課題や障害に幻想を抱いていないとしながら、こううたいます。「私たちは楽観主義と決意をもって前進する」「地球上から核兵器が完全に廃絶されるまで休むことはないだろう」


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