2021年7月25日(日)
東京五輪
中止 「命」の名において
政治部長 中祖寅一
2019年12月31日に「原因不明の肺炎」の報告がされてから1年半余―。日本国内では、新型コロナウイルス感染症で86万2143人が感染し、1万5116人が亡くなりました(23日まで、NHK調べ)。世界では2億に近い人が感染し、400万を超える人が亡くなっています。文字通り人類社会を戦後最大の危機が襲っています。
個人と社会を保護する国と政治の役割がこれほど鋭く問われたことはありません。「命」の尊さを社会全体が見つめてきました。政治は「命」を守るためにある―この原点が万人の共通の認識になったと言えます。
安倍・菅自公政権は、「安全・安心」を繰り返しながら、ことごとく政治の使命と国民の訴えに背き続けてきました。「自己責任」論に固執し、営業制限に不可欠の補償は不十分なまま、医療機関への減収補填(ほてん)に背を向け、無症状感染者発見のPCR検査を抑圧しました。GoTo事業は感染を全国にまん延させる逆行でした。その究極の到達点が五輪開催の強行です。
主な会場となる東京と首都圏では感染が急拡大。東京では2000人に迫る規模となり、前週比の増加率も150%超など「加速」が顕著です。専門家は、従来型の2・5倍の感染力というデルタ株の影響を警告しています。東京のある保健師は「保育園での感染が非常に増えている。家庭内感染が圧倒的で五輪観戦が危険だ」「数日前600人のホテル療養が決まったが、300人しか入れなかった」「入院は、23区内はいっぱいで多摩地域への搬送となる。五輪の交通規制で時間がかかりすぎる」と危機感を募らせます。
政府による補償を欠いた「営業制限」は効果を失って人流抑制は進まず、何より「人流抑制」を言いながら世界最大の祭典の開催という矛盾が人々の行動を促進し、全国に危険は拡散しています。
一方、医療現場では試行錯誤を繰り返しながら必死の救命、治療を続ける人々がいます。基礎疾患を抱え、感染の恐怖におびえながら経済的困窮にも耐えて懸命に生きる努力をする人々がいます。危険は弱い立場の人にほど、より深刻な危険となって襲いかかります。
そうした人々がジリジリとした気持ちで五輪報道のテレビを見るという国民的分断が、菅義偉首相にわかっているのでしょうか。
国家の威信をかけた事業に国民の命が多少の犠牲をうけても仕方ないというなら人権の根本原理からも完全な誤りです。政治の誤りで多くの「命」への新たな危険が現実の危機となる―あってはならない現実です。怒りを込めて東京大会開催の強行を糾弾し、「命」の名において直ちに中止を求めます。
もとよりアスリートに責任はありません。「命」を守るため大会中止の決断を下すのは政治の責任です。