2021年6月3日(木)
軍「慰安婦」制度認める文書
強制動員の犯罪事実 紙議員が入手
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日本共産党の紙智子参院議員は、法務省が今年3月31日に、日本軍「慰安婦」関係文書として内閣官房補室に送った「長崎地裁及び長崎控訴院における国外移送誘拐被告事件判決概要」を入手し、公表しました。判決概要は、長崎控訴院刑事第一部が1936年9月の控訴審判決で認定した犯罪事実です。
長崎県内の女性15人を「食堂の女給で客をとる必要はない」、多額の収入が得られるなどとだまして、中国・上海の「海軍指定慰安所」に送り「醜業」(売春)をさせた民間の被告人10人が有罪判決を受けたことが具体的に記されています。
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1993年の河野洋平官房長官談話(「河野談話」)の「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた」との認定を裏付けるものです。
判決は当時の大審院(戦前の最高の司法裁判所)も取り入れ、日本軍と政府に衝撃を与えました。判決後の1937年9月に、陸軍省が「野戦酒保規程」を改定し「必要ある慰安施設をなすことを得」ると追加し官報に掲載。これにより日本軍「慰安所」設置が法的に公然と認められることになりました。
解説
女性をだまし海外の「慰安所」に
戦前の大審院で確定した判決は、1930年10月ごろから上海駐屯の帝国海軍軍人を顧客とする営業を行っていた被告が、1932年1月、第1次上海事件の勃発によって、「多数帝国海軍軍人の駐屯を見るに至ったことをもって、海軍指定慰安所なる名称の下に従来の営業を拡張することを欲し」、協力者を集めて、日本の婦女を「女給または女中」に雇うとだまして、上海の慰安所に送ることを謀議した、とあります。
第1次上海事件(1932年5月に停戦)は、中国東北部につくられた日本のかいらい国家「満州国」建国から欧米諸国の目をそらすために、関東軍がたくらんだ陽動作戦といわれています。日本の陸軍と海軍は「管轄地域」を分けており、陸軍は華北と満蒙(「満州」と内蒙古)、海軍は上海をふくむ華中と華南としていました。海軍は中国側の予想外の強力な抵抗で苦戦。最終的には中国軍が4万人、日本軍の投入が陸軍上海派遣軍を含め4万人にも達しました。
日本軍の「駐屯」拡大を背景にして、もともと海軍兵士を相手にしていた「慰安所」の業者がもうけを広げるために、日本人婦女の「誘惑」を謀議し、実行したのです。
判決文書は、「行き先は兵隊相手の食堂である」、「食堂の女給で客をとる必要は無い」、「祝儀などで一か月200円、300円くらいある」「上海の仕出し屋の女中」などと甘言で誘い、女性たちに「上海行を承諾させ」送ったことを有罪と認め詳細を記述しています。
これまで日本政府が統一見解としている「慰安婦」の「強制連行を記述している文書はない」という主張をくつがえす貴重な判決文書です。「海軍指定慰安所」に女性たちをだまして送ったことに、裁判所が業者の法的責任を認めたものです。
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の一人、小林久公(ひさとも)氏は、「それまで闇に隠れていた軍『慰安所』の設営をこの判決を機に、軍は公式なものとして認め制度的に運営しなければならなくなったと考えられます」といいます。
1937年9月に、陸軍省が「野戦酒保規程」を改正し第1条に「必要ある慰安施設をなすことを得」ると追加し、9月29日の官報に掲載しました。陸軍と政府の内務省警保局との協議が開始され、1938年2月の内務省警保局長通牒(つうちょう)で「現地における実情に鑑み」「特殊の考慮をはらい」、「婦女売買に関する国際条約に悖(もと)る」が、「当分の間これを黙認する」として、女性の国外送出の手続きをつくりました。陸軍省は1938年3月、「軍慰安所従業婦募集に関する件」を発出します。
こうした政府と軍の手続きをへて「慰安婦」の強制動員が制度化されました。その発端が、今回の国外移送誘拐事件の有罪判決です。(山沢猛)