2020年10月23日(金)
滝川事件から考える「学問の自由」
社会部長 三浦誠
日本学術会議が産声をあげたのは1949年1月20日。第1回総会では基本的な指針となる声明を採決しています。「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」です。声明は「学問の自由」などの確保を掲げ、誓いの言葉を述べています。
「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」
起草したのは法学博士の末川博・立命館大学総長(故人)です。末川氏は、学術会議主催の「学問・思想の自由のための講演会」(50年2月)で「反省」の内容を説明しています。
―政治的な力が科学に圧迫を加え、科学を政治の奴隷のように扱った。そんな中で科学者が政治の使用人になったりなろうとしたりした。声明は科学者の「過去の卑屈な態度についての反省であり、ざんげである」…。
末川氏は33年の京都大学・滝川事件で、抗議の辞職をした7人の教授のひとり。天皇制政府が、『刑法読本』の著者である滝川幸辰教授を危険思想の持ち主だとして休職を命じた事件です。
滝川教授の学説は▽社会環境をよくしなければ、刑罰をいくら重くしても犯罪はなくならない▽妻の姦通(かんつう=不倫)だけを犯罪にし、夫の姦通を不問にするのはおかしい―というごくまともな内容です。
当時の日本共産党機関紙「赤旗(せっき)」は、マルクス主義者ではない滝川教授までが、進歩的な学説を発表したことで弾圧されたと指摘。労働者は科学者らと「手を握って」たたかおうと呼び掛けました。
滝川事件のころから、時の政府は学問への抑圧を強めます。末川氏は「学者も技術家もウソをいうように強いられて来た」「思想の自由も学問の自由もまったくなくなったといわねばならない。そして戦争へぶち込んだのである」(『法と自由』)と振り返っています。
戦後、学術会議は政府から独立して職務を果たす機関として設立されました。当時の吉田茂首相も設立の祝辞でこう強調しています。「国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘(せいちゅう=自由な行動を妨げること)を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておる」
いま菅義偉首相は、会員の任命を拒否するという“抑圧”行為をしています。特定の学者を排除することで「学問の自由」も侵害しています。滝川事件当時の政府に共通する強権的な手法です。
講演で末川氏は「学問は平和のためのものでなければならない」「そうするためには、学問思想の自由を守らねばならない、そこに、平和のためのたたかいが必要なのである」と訴えています。私たち「赤旗」も学問の自由を守り、平和を守るために、報道を続けます。