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2020年7月23日(木)

8・6―9 被爆75年

広島県朝鮮人被爆者協議会理事長 金鎮湖さん

置き去りにされた朝鮮人

 1945年の広島、長崎への原爆投下により、在日朝鮮人はその年の暮れまでに広島で4万人、長崎で2万人が被爆しました。「日本に残った人も、朝鮮に戻った人も、何重もの差別と病気に苦しんでいます」と語るのは、広島県朝鮮人被爆者協議会の金鎮湖(キン・ジノ)理事長です。朝鮮人被爆者の実態と思いは―。(加來恵子)


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(写真)金鎮湖さん

 在日朝鮮人は、朝鮮半島から日本へ出稼ぎに来ていた人もいましたが、多くは1930~40年代に朝鮮半島から強制的に連れてこられた人たちでした。日本で過酷な労働を強いられました。

祖国に戻るも

 金さんは「広島県庄原市にある高暮ダム建設には約2000人の朝鮮人が強制労働をさせられ、人間の扱いをされず100人を超す人たちが命を落としました」と憤ります。

 8月15日、日本の終戦=朝鮮解放を迎え「祖国に帰ろう」と、翌46年に本格的に本国朝鮮に帰る動きが起きました。

 しかし、朝鮮の世論のなかに、在日朝鮮人は“国を裏切った。国を捨てて逃げた”などの意識があり、朝鮮人被爆者たちは、日本にいたことや被爆したことを口外することができませんでした。

 54年のビキニ事件により、放射線被害が大きな問題となり、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が56年に結成され、57年に被爆者健康手帳の交付などが実現しましたが、朝鮮人被爆者は置き去りにされました。

 1975年8月に朝鮮人被爆者協議会を結成。被爆者援護法の適用を求めて運動を展開し、76年に在日朝鮮人に被爆者健康手帳の交付を実現させました。

 しかし、朝鮮半島に戻った被爆者は、放置された上、祖国が南北に分断されたため一層の苦難を強いられ、被爆者であることを伏せて暮らしてきました。

 在朝被爆者支援連絡会が2008年の実態調査で確認した生存者382人を18年に追跡調査したところ、把握できた111人のうち生存者は60人でした。

補助受給困難

 金さんは言います。「被爆者援護法は国籍に関係なく医療費補助を認めていますが、日朝関係に国交がなく、受給は困難です。高齢になった被爆者調査と被爆者への償いをするべきです」

“核兵器廃絶と補償を”

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(写真)「ヒバクシャ国際署名」を呼びかける金さん(左から2人目)と被爆7団体代表ら。同4人目は松井一実市長=2017年6月1日、広島市

 金さんは胎内被爆者であることを、中学3年生まで知りませんでした。20歳ほど離れた姉が広島に戻って来た時、「親にも誰にも言ってはいけないよ」と教えてくれました。

 当時、原爆の影響で奇形児が生まれた、結婚ができないなどのうわさが広がっており、多くの被爆者が被爆したことを伏せました。

思いを継いで

 当時17歳だった義兄は、「荷車に死体を載せ、今の平和公園のあたりで、線路の下に敷いた枕木をまきにして集めた死体を焼き、内臓が体から飛び出て、そこに火が付き、花火のようだった」と被爆体験を語りました。

 別の被爆者は、救護所に行くと、「朝鮮人なんか診るような場所はない。帰れ!」と言われ、赤チン(消毒液)さえも塗ってもらえず、傷口にわいたウジ虫をつまんで捨てていたことを話してくれました。

 「誰も被爆体験を好きで話したくはないのです。悲惨だし、差別もありましたから」

 3月に亡くなった同協議会の李実根(リ・シルグン)会長(90)の願いは“朝鮮半島の被爆者問題を解決したい。核兵器をこの世からなくしたい”でした。

 金さんはその思いを受け継いでいます。

戦争せぬ保証

 同協議会は、核兵器のない世界に向けて広島の被爆7団体で「ヒバクシャ国際署名」に取り組んできました。

 「日本は禁止条約に参加し、核兵器廃絶の先頭に立つべきです。しかし、毎年行われる被爆者と首相との懇談でも首相は核兵器廃絶について言及しません」と日本政府の姿勢を批判します。

 「核兵器を使ったアメリカに対し、謝罪と補償を求めたい。日本に対しても、植民地支配と強制連行、そして被爆の歴史から、謝罪と国家補償を行うべきです。それが、二度とふたたび戦争を繰り返さないための保証になるのです」


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