2020年6月23日(火)
沖縄戦終結75年 きょう「慰霊の日」
渡嘉敷村 金城鶴子さん(91)
「集団自決」 一度死んだ私 命こそ宝
|
太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍が離島や沖縄本島に上陸すると、日本軍が強制し、手りゅう弾などで家族や隣人同士が殺し合う「集団自決」(強制集団死)が県内各地で起きました。
1945年3月28日には渡嘉敷(とかしき)島で住民329人が、4月2日には、沖縄本島の読谷(よみたん)村の自然洞窟(ガマ)のチビチリガマに避難していた住民83人が犠牲になるなど、大勢の人が「自決」に追い込まれました。
背景には、当時の沖縄の日本軍の「軍官民共生共死」の方針があります。日本軍は、「米軍の捕虜になったら女は強かんされ、男は戦車の下敷きになって殺される」などと住民に恐怖心を植え付け、米軍に投降する人を「スパイ」とみなし、投降を許しませんでした。日本軍が住民に「自決」用の手りゅう弾を配った事例もあります。
頭から消えない
|
「70年以上たつのに、全然頭から消えない。一晩中眠れなくなる時があるんです」―。渡嘉敷島の「集団自決」から生き残った同県渡嘉敷村の金城(きんじょう)鶴子さん(91)は、当時のことを語りました。
「集団自決」の当日、「天皇陛下、万歳」との声が周囲から上がるのを聞いた直後、15歳だった金城さんは後ろから首をしめられ、気を失いました。首をしめたのは父親のようだったと話します。
翌日、目を覚ました金城さんが目にしたのは、首をつった父親とそばに寝かされている母と姉2人の遺体でした。周りも遺体だらけでした。
「私は、一度死んだ」と語る金城さん。親の手によって命を落とすところだった体験を、「話してしまえば、お父さんにすまない」と、長い間、家族にも話しませんでした。
近年、「戦争が近づいている。二度と戦争だけは起こしてはいけない」との強い思いで、証言するようになりました。
日本軍に追われ
|
「子どもの時はわがまま者で、(家族)みんなに迷惑をかけた」と金城さん。亡くなった家族に別れを言わないまま集団自決の現場を去ったことが、「今でもつらくなる」と言います。「夢の中でも、ちょっとだけでもいいから、顔が見たい」
金城さん一家は、同年3月23日の米軍の空襲で、大見謝(おおみじゃ)山に避難し、渡嘉敷島への米軍上陸が始まった27日に警察官の命令で、集団自決の現場となった島北部の北山(にしやま)に移動しました。何も食べずに大雨の中、一晩中かけて歩きました。ぬれても着がえる服もなく、「寒かった」といいます。
道中、避難壕(ごう)にいた日本兵に、金城さんの父親が乳飲み子にお乳をやるために壕内を使わせてほしいと頼みました。しかし、日本兵は「早く出て行きなさい」と冷たく追い払いました。「住民を守らず、自分の身を守るだけなのか」と、父親は憤りました。
日本軍が住民に手りゅう弾を配っていた事例があることを最近知ったという金城さんは「身震いするほど嫌だ。(当時は)分からなかったが、そういう世の中だったのか」と述べました。
新基地必要ない
安倍政権が強行する同県名護市辺野古の米軍新基地建設について金城さんは「戦争の準備をしている。良心はどこにあるのかと思い、腹が立つ。戦争しないなら、きれいな海に(基地を)造る必要はない」と批判。「戦(いくさ)が来たら、子や孫たちの生活がどうなっていくのか心配ばかり」と語りました。
「命こそ宝。本当に争いごとをなくして、平和な世の中であってほしい」―。金城さんの切なる願いです。(小林司)