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2020年6月23日(火)

沖縄戦終結75年 きょう「慰霊の日」

元鉄血勤皇隊 儀間昭男さん(92)

沖縄戦 地獄としか…

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(写真)儀間昭男さん

 太平洋戦争末期の、多くの住民を巻き込む激しい地上戦で二十数万人の尊い命が奪われた沖縄戦から75年。沖縄県では23日、「慰霊の日」を迎えます。鉄血勤皇隊として動員された儀間昭男(ぎま・あきお)さん(92)は「地獄以外に言い表せない」体験を語り、新たな基地建設は許さない「心豊かな平和な島・沖縄」の実現を、訴え続けています。(洞口昇幸)

「心豊かな平和な島を」

 「あちらこちらに、住民と兵隊の遺体が折り重なって山のように積まれ、ちぎれた手足が泥まみれで散らばっていた。亡くなった人たちが悪いことをしたわけじゃないから、地獄と言うと大変申し訳なく思うが、すさまじかった」

 1945年5月、17歳だった儀間さんが、旧日本陸軍(第32軍)の司令部が置かれた首里城(現・那覇市)から、沖縄本島南部の摩文仁(まぶに)へ撤退する道中で目撃した光景です。

激しい攻撃

 沖縄戦最後の激戦地となった摩文仁―。儀間さんらが到着した当初はサトウキビ畑や芋畑が広がり、戦争からはかけ離れた風景でしたが、その後の米軍の激しい攻撃で、一変します。

 「6月中旬に鉄血勤皇隊の解散命令が出て、北部に逃れようと壕(ごう)から外に出ると、畑はすっかりなくなり、多くの遺体を目にするか、重傷者の『殺してくれ』という声が聞こえてくるばかりだった」

 米軍が沖縄本島に上陸する前日の同年3月31日、沖縄師範学校本科1年生だった儀間さんは、少年兵部隊の鉄血勤皇隊に召集されました。避難壕「留魂壕(りゅうこんごう)」から約300メートルの距離にある第32軍司令部壕を掘ることに従事しました。壕と壕の往来も命がけで、目の前で砲弾によって命を落とす学友もたくさんいました。

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(写真)「留魂壕」の入り口=2月、那覇市

姉はどこで

 両親は沖縄県外の疎開先で病死。軍の看護事務で働いていた姉は、沖縄のどこで亡くなったのか現在もわからないままです。

 「今、米軍基地を容認している人たちは戦争のむごたらしさを経験していない人が多い。再びあのような戦争は繰り返したくないし、戦争につながる基地は造らせたくない」

新基地反対 きょうも立つ

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(写真)辺野古新基地建設反対の意思を示すスタンディングに参加する儀間昭男さん=15日、那覇市

 当時の日本政府が「国体護持」(天皇制存続)と本土決戦を遅らせるための「捨て石」と位置付け、沖縄県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦―。鉄血勤皇隊として動員された儀間さんは、地獄のような光景を目にしながら、「戦争に負けるはずはないと思っていたし、死ぬことも怖くなかった。マヒしていた」と当時の心境を振り返りました。

 「(当時の軍国主義的な)教育が、死ぬのもいとわないと思わせるほど徹底していた。教育の力は恐ろしい」とも語りました。

 儀間さんは、安倍政権が強行する同県名護市辺野古の米軍新基地建設に反対する「安里・大道・松川 島ぐるみの会」が、毎週月曜日に那覇市内の街頭で行うスタンディングに参加しています。

 「米軍がいて新基地ができれば、必ずそこで訓練や演習をする。住民生活が脅かされてもなかなか訓練などは止められない。結局、基地は造らせないこと、撤去させることしか解決はない。米軍普天間基地(同県宜野湾市)も残してはいけない」と訴えました。


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