2020年5月10日(日)
シリーズ安保改定60年
「基地で潤う」は幻想
沖縄・辺野古 西川征夫さん(元金物店主)のたたかい
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昨年秋、沖縄県名護市辺野古区の、ある金物店が店じまいしました。1997年4月から22年あまり、辺野古の米軍新基地反対を訴えてきた西川征夫(いくお)さん(76)が営んできた「辺野古金物店」です。いまはこれまでの活動写真が壁いっぱいに飾られ、たたかいの歴史を未来に伝える学習の場になっています。西川さんは決意を込めます。「商売もやめたので、これからも全力投球で携わっていく。使命感です」
変化
95年、沖縄に駐留する米兵による少女暴行事件に県民の怒りが爆発。同年10月の県民大会には8万5千人が参加しました。これに対し、日米両政府は96年、SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)で、米海兵隊普天間基地(宜野湾市)の返還を打ち出しましたが、新基地建設と引き換えでした。
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「実は千載一遇のチャンスと考えていた。当時は建設業関連にいたから仕事も増えるだろう」と打ち明ける西川さん。自民党国会議員の後援会青年部にも入っていた西川さんの「気持ちが変わった」のが97年1月、辺野古公民館で行われた日本共産党主催の学習会でした。浮かび上がった実態は、辺野古の海を埋め立て、住民の真上をオスプレイが飛び交う巨大な基地建設でした。
「絶対に受け入れることはできない」と、同年1月27日にヘリ基地建設阻止協議会「命を守る会」が発足。4、5人ほどだった仲間が集まるたびに10人、20人と増えていきました。初代会長になった西川さんは、仕事を干されるなどの嫌がらせを受けても屈しませんでした。
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同年12月21日に行われた名護市民投票で新基地建設反対が多数となります。西川さんは「これで終わりだ。命を守る会は解散準備だ」と勝利宣言。ところが、その3日後、当時の比嘉鉄也市長が民意を裏切り、新基地受け入れを表明します。
衰退
その後、辺野古区の行政委員会は、振興や戸別補償などの条件付きで基地を受け入れる方針に転換しました。辺野古の米軍キャンプ・シュワブの米兵が落とした金で「繁栄」したベトナム戦争時の“再来”―。そうした幻想の背景には、基地と引き換えの交付金や「振興策」による政府の「アメとムチ」政策がありました。市民に深刻な「分断」が持ち込まれたのです。
西川さんは24歳のときキャンプ・シュワブで軍警備隊に入隊。ベトナム戦争が本格化した60年代後半、米兵が飲食店でお金をどんどん落とします。一方で酒におぼれた米兵による殺人など事件が多発。戦争が終わると米兵が激減し、辺野古も衰退しました。
「基地と町はそういう大きなリスクがある関係だ。建設業の会社が8社あったが、いまは1社しか残っていない。基地で潤うという感覚はもう古い」
基地は完成できない
県民のたたかい 大河のごとく
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戦後、沖縄県は米軍の軍事的支配の下におかれ、今なお米軍専用基地の70・3%が集中。米軍に土地を奪われ、騒音や事故、犯罪、環境汚染といった過剰な基地負担に苦しんできました。
民意
これ以上の新たな基地はいらない―。辺野古の数人の住民からはじまったたたかいが、やがて分断を乗り越え、大河のような流れになってゆきます。
「辺野古の海にも陸にも基地を造らせない」と訴えた稲嶺進氏が名護市長に当選(2010年)。普天間基地の閉鎖・撤去、「県内移設」(辺野古新基地)断念などを求め県内全41市町村長・議会議長らが署名した「建白書」の提出(13年)。保守と革新の壁を乗り越え、「米軍基地は経済発展の最大の阻害要因」と訴えた翁長雄志知事の「オール沖縄」県政の誕生(14年)。翁長知事を継承する玉城デニー氏の知事選での圧勝(18年)。そして、7割超が新基地に反対した県民投票(19年)―。
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安倍政権はこうした民意に逆らい、新基地工事を強行。18年12月から埋め立て土砂の投入に着手しました。埋め立て土砂が搬出されている名護市安和の琉球セメント桟橋と、本部町の本部港塩川地区で監視をしている「本部町島ぐるみ会議」の記録によると、採石場から土砂を運ぶダンプ台数が今年に入り急増しています。同会議の高垣喜三さん(71)は「土砂を海上搬送する運搬船も大型化し、効率化を図っている」と指摘します。
破綻
それでも、土砂投入量の進捗(しんちょく)状況は1・6%(1月末時点)にすぎません。単純計算すれば、土砂の投入だけで60年以上かかります。さらに、新基地建設の作業員が新型コロナウイルスに感染するなどして、工事は中断しました。
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政府の新基地計画は技術的にも破綻に直面しています。埋め立て予定地に広がる軟弱地盤改良工事に伴う設計変更を県に申請しましたが、軟弱地盤が海面下90メートルにまで達する地点もあるなか、国内にある作業船では海面下70メートルまでしか地盤改良工事ができません。専門家は「工事を強行すれば護岸が崩壊する恐れがあり、工事は破綻する」と指摘します。
さらに、完成まで最短で12年という工事の長期化、当初想定の約2・7倍となる9300億円もの莫大(ばくだい)な費用。そのうえ、玉城デニー県政が続く限り変更申請が認められることはありません。
高垣さんは「現場で業者と顔を合わせていますが誰も基地ができるとは思っていません。コロナで工事が中断していますが、国は新基地建設を断念するいい機会ではないか」と話します。
被害
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普天間基地から直線距離で200メートルほどの自宅の斜め上を米軍機が爆音を響かせ通り過ぎます。宜野湾市新城に住む奥田千代さん(78)は「新型コロナウイルスでも米軍はお構いなし。毎日わじわじーして(頭にきて)暮らしている」と語ります。「県民の土地をぶんどって自由気ままに飛びまわって。その下に私たちが住んでいるんですよ」
辺野古新基地建設の最大の大義名分は「普天間基地の危険性除去」でした。そして、安倍政権は完成前であっても19年2月までの「運用停止」を県と約束していましたが、反故(ほご)にしました。この間、MV22オスプレイ墜落(16年)、小学校校庭へのCH53ヘリの窓枠落下(18年)など、普天間所属機は重大事故を繰り返してきました。
さらに、オスプレイの夜間訓練の増加、戦闘機など「外来機」の飛来増加で爆音被害が拡大。宜野湾市に寄せられた苦情件数は18年度に過去最高の684件に達しました。19年度も507件が寄せられ、「最近は23時まで飛んでいて、メンタルをやられている」など深刻な声もあります。
政府が辺野古に固執すればするほど、普天間基地は「固定化」され、「危険性」が拡大されているのです。
もはや「辺野古新基地計画は技術的にも財政面からも完成が困難」―。県の「米軍基地問題に関する万国津梁(しんりょう)会議」は今年3月、こうした提言を出しました。同会議の柳沢協二委員長(元内閣官房副長官補)は「おそらく政府内でも、本気で完成できると思っている人間はいない。まず、その点を認めて県と真摯(しんし)な議論を進めるべきだ」と語ります。
沖縄のこころ 平和アジアの架け橋
原点
日米両政府が権力を総動員して襲いかかっても、沖縄県民は屈しませんでした。その根底にあるのは、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦の記憶です。
奥田さんは両親の顔を知りません。75年前の沖縄戦。父は戦死、母は本島北部の捕虜収容所で亡くなりました。当時3歳の奥田さんにほとんど記憶はありませんが、母が亡くなった状況はかすかに覚えているといいます。「あの戦争の二の舞いはもうごめんという気持ちが原点。有事となれば基地が狙われる。ただ普天間がだめ、辺野古がだめというだけでなくたたかうための基地が許せない。だから、おじい、おばあが座り込んで抗議する。県民の絆が強いのは原点が戦争にあるからです」
未来
沖縄戦のきっかけは、旧日本軍が「本土防衛」の“捨て石”として、沖縄に基地を建設したことがきっかけでした。戦後は米軍の占領下で住民の土地を強奪し、アジアへの侵略拠点として基地拡張が進められました。復帰後も日米安保体制の下、「基地の島」としての実態が変わることなく続いています。
沖縄はどこへ向かうべきなのか―。万国津梁会議は「沖縄はアジア太平洋における緊張緩和・信頼醸成のための結節点を目指すべきである」と提言しました。平和を希求する「沖縄のこころ」を伝え、アジア地域の「架け橋」としての役割を担う―。「基地のない平和な沖縄」へ、県民のたたかいは続きます。
(竹下岳、柳沢哲哉、斎藤和紀、石黒みずほが担当しました)