2020年5月10日(日)
新型コロナが問う日本と世界
ケア軽視の政治転換を
同志社大学教授 岡野八代さん
コロナ危機は、新自由主義路線の政治や経済のあり方に転換を迫っています。転換のために政治が向き合うべきことは何か。同志社大学の岡野八代教授に聞きました。(日隈広志)
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新型コロナウイルス感染症の問題は、社会を支えている「家庭」「家族」の役割を浮き彫りにしました。
人と人との接触によって感染が拡大する新型コロナの防止のために、「ソーシャルディスタンス」、つまり社会的距離をとることによる“隔離”が必要となったことから、経済や教育などの人間の社会的な営みが分断されてしまいました。そのため、人々の主な避難や療養の場所は、「ステイホーム(家にいよう)」の言葉通り「家庭」になりました。家庭で家事や育児、介護の大半を担っているのは女性です。家庭への負担増は、女性への負担増を示しています。
女性差別の構造
日本では、安倍晋三首相による「一律休校要請」は、学校が担う教育や児童の安全確保をなし崩し的に家庭に押し付けたものです。
そのうえ、ひとり親世帯など家庭への配慮は極めて不十分です。一律10万円給付は「世帯主」を「受給権」者としており、DV(ドメスティックバイオレンス)の実態を考慮したとは言えません。家庭の負担を激増させるコロナ危機の構造のなかで、各家庭の事情によって異なって現れる諸問題に十分に対処できていないのは、政治の機能不全です。
安倍政治の転換は当然です。
政治が女性差別の現状と構造に向き合い、憲法が規定する人権尊重へと転換すべきです。そのためには、政治に人間や社会の「脆弱(ぜいじゃく)さ」を前提に考える「ケアの倫理」が必要です。
個人の尊厳保つ
人間は乳幼児などの児童期、けがや障害、高齢期などさまざまな場面で誰かに依存し、また依存される存在です。この依存関係が保育や介護などのケア(世話、管理)行為を必要とし、それによって個人の尊厳は保たれます。
ケアする側には何が必要なのか、適切なコミュニケーション(交流)が求められます。人間の脆弱さを認め、気遣いや聞き取りをし、誤りがあれば改めるなど、ケアの営みを通じて生まれる価値や態度が「ケアの倫理」です。
ケア抜きに社会は成り立ちませんが、歴代の自民党政権は軽視してきました。育児や介護などの最終的な責任を家庭と女性に押し付け、その一方で、医療費を抑制するなどして社会保障関係費を事実上削減し、医療や保育、介護の現場での労働者の低賃金など劣悪な待遇を放置してきました。
「ケアの倫理」は個人の尊厳を支え、“もうけ第一”“弱肉強食”で自己責任を強いる新自由主義の資本主義のあり方を鋭く問う視点だと言えます。
政治の措置 今すぐに
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女性の権利向上を求めてきたフェミニズムのなかで、「ケアの倫理」を政治変革の理念に据える議論が登場してきました。背景には、女性がケア労働を押し付けられ、蔑視されてきた歴史があります。
国際的には、新自由主義路線で医療や福祉の削減を推進してきた国ほど「医療崩壊」の度合いが強い傾向にあります。コロナ危機を経て、社会保障強化への流れは強まらざるを得ないでしょう。
同時に、「ケアの倫理」に基づく政治の措置は今すぐに必要です。
国連女性機関(UN WOMEN)がジェンダー平等の視点による感染拡大の防止策を提言したように、コロナ危機のもとでジェンダーや親子などの力関係に基づく「女性や子どもへの暴力」は深刻化しています。すでに若年の女性への食事提供や宿泊支援を行う「Colabo(コラボ)」やDV被害者を支える「全国女性シェルターネット」などから、被害の増加が訴えられています。国の不十分な行政からこぼれ落ち、“なかったこと”のように扱われてきた問題が浮き彫りとなっているのです。