2019年12月22日(日)
日本軍戦争跡をたどる
マレーシア・シンガポールにみる「慰安所」(中)
公式記録に「開設」記す
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占領下のマレーシアでは、主に現地の女性が集められて、各地に慰安所が設けられました。このうち、首都クアラルンプールに近い、ネグリ・センビラン(森美蘭)州を占領していた日本軍が、地元の住民団体に「慰安婦」の提供を強要、大規模な住民殺害(「敵性華僑狩り」)の直後に、「慰安所」を開設していました。
500人超虐殺
州都セレンバン東方のまち、クアラピラには1942年2月、第5師団(広島)歩兵第11連隊第7中隊の約90人が駐留していました。同中隊の公式記録である「陣中日誌」が87年、林博史関東学院大学教授(日本現代史)によって防衛研修所図書館で発見されました。
その記述によると、42年3月3日から州内各地で「華僑粛清」にあたり、584人を銃剣で刺殺し、280人を憲兵隊に引き渡しています。刺殺された人には抗日ゲリラは含まれておらず、多くがゴム園に住んで働いていた住民と家族でした。
クアラピラ治安維持会の会長代理だった李玉旋さんは当時の体験を、林氏らに証言しました。
―地元の若い女性が日本兵に乱暴される事件が頻発、そこで中隊に女性の保護を申し入れにいった、ところが中隊長は、安全確保のかわりに女性の差し出しを要求した。治安維持会で相談して地元の30歳代の女性数人を集めて軍につれていったところ、仲介者がいきなり殴られた、彼女たちが年を取りすぎていることが理由だった。
李さんは自分が首を切られるかもと心配し、友人と2人で首都に行き、歓楽街で知人の女性に頼んで17歳から24歳までの中国人13人を「招待所」で働くということで集めてもらった。途中、州都セレンバンで娼婦(しょうふ)ではない5人を加えた。
町の端の建物を使った「招待所」と、中隊のそばにあった州のサルタン(統治者)一族の屋敷を利用した「慰安所」の二つに分けて18人を収容したが、すべて中国人だった。招待所が将校や憲兵用、慰安所が一般兵士用だった。彼女たちは外出を禁じられていて、李さんが買い物を頼まれた。「早く帰りたい」と泣きながら訴えられたことが何度かあったという。女性たちには治安維持会が1カ月分ずつ日本の軍票(バナナドル)で支払ったという―。
刺殺と同時
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第7中隊の「陣中日誌」には、「不偵(=不逞)分子」刺殺の記述のすぐあとに、「本日ヨリ慰安所開設セルヲ以テ午後一般ニ休養セシム」と書かれていて、住民虐殺と「慰安所」設置をほぼ同時にすすめたことが裏づけられます。
第7中隊長と小隊長2人は戦後、戦犯裁判にかけられ、住民虐殺の罪で死刑になっています。
林氏は、虐殺の一方で、地元住民に女性の世話を命じていたことは、「被害者を同じ人間として認めていなかったわけで、根が共通している」といいます。
(シンガポール編につづく)