2019年11月14日(木)
戦火に焼かれた首里城
元鉄血勤皇師範隊・日本共産党元衆院議員 古堅実吉さん語る
沖縄苦難の歴史を象徴
正殿などが焼失した首里城(那覇市)は、太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍の攻撃によって灰燼(かいじん)に帰してしまった過去があります。地下に沖縄守備軍の第32軍司令部壕(ごう)がおかれたためです。当時、「鉄血勤皇師範隊」に召集されていた日本共産党元衆院議員の古堅実吉(ふるげん・さねよし)さん(90)は、首里城の破壊を目の当たりにした一人です。(岡素晴)
|
「海面も、水平線も見えないほど、考えられないぐらいの軍艦が海を埋め尽くしていた」。74年前の1945年3月31日の夕暮れ。首里城がある小高い丘の中腹で、古堅さんが木々のすき間から、那覇の西海岸を眺めると、言葉を失う光景が広がっていました。当時15歳、沖縄師範学校の生徒でした。
艦砲射撃や爆撃
「もう沖縄は袋のネズミだ。逃げ延びるところはどこにもない」と、がく然とします。その直後に軍命で鉄血勤皇隊に召集。主に従事させられた任務は、軍司令部壕の入り口におかれた発電機を冷却するための水を、井戸から運ぶ作業でした。司令部とともに首里を撤退し、本島南部に移動を始めた5月27日まで、昼夜問わず降り注ぐ艦砲射撃や航空機からの爆撃の中、水を運び続けたと話します。
沖縄戦が始まってしばらくしてから、友人に「首里城が燃えている」といわれ、煙が上がっているのを確認しました。「われわれが撤退するころの首里城周辺はとことん破壊し尽くされ、人の手を加えたあらゆるものが姿を消していました。かつて王府がおかれ、樹齢数百年の大樹が林立する地域でしたが、枝を残す木もほとんど見つからないぐらいに…」
40~50年たてば
戦後、米軍統治の苦難をへて沖縄は祖国復帰を成し遂げ、復帰20周年に首里城は正殿などが復元されます。戦火に焼かれる前の古びた印象だった建物を知るだけに、復元直後の「ピカピカに輝いた新しい色」に当初は、違和感を禁じえなかったといいます。
「しかし、時間がたつうち、だんだんと落ち着きを見せるような雰囲気の色合いになってきていました。あと40~50年もたてば相当、威厳のあるものになっていただろうと思います。本当に言葉が出ない」
学友失った記憶
首里城は、自身にとって学友を失った忘れがたい記憶をつなぐ存在でもあります。
師範学校の寮が同室で、机を並べ親しかった先輩は、夜間に壕の外に出ていた時、砲弾の破片に片足を吹き飛ばされ、師範隊で最初の犠牲者になりました。
2人1組で一緒に作業をしていた同期生は、水の運搬がひと段落し休憩に入ろうとした瞬間、至近に着弾した破片が直撃。首から右肩にかけてえぐられ、目の前で即死しました。
首里城とは、戦争の惨禍、米軍占領下の時代を含め数々の苦難を背負ってきた歴史の象徴として、県民の心に支えられた存在だった―。そう語る古堅さん。玉城デニー県知事を先頭に、強い決意のもとで早期再建に向けた歩みが始まっていることに期待を寄せます。「それぞれの立場からみんなが力を合わせ、元の姿をしのばせる立派な首里城を再びつくり上げてほしい」