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2019年8月28日(水)

証言 戦争

12歳の私が母を荼毘に 富山大空襲 炎の中逃げ、焼夷弾直撃

東京・府中市 奥田史郎さん(86)

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 敗戦間近の1945年8月1~2日の夜中、富山市は米軍の爆撃機B29による苛烈な空襲を受けました。

 炎熱と猛烈な火風の中を逃げ惑う人々のなかに、当時12歳の奥田史郎さん(86)の一家9人がいました。

 母親=当時(37)=は小さな子どもたちを連れて先に逃げました。「すぐ後を追って目にしたのは、頭に焼夷(しょうい)弾の直撃を受けて絶命した母の姿でした」。3歳の妹は母の下になり、泣き叫んでいるところを男性に助けられました。

1坪に爆弾1キロ

 米軍の記録によると、184機ものB29が容赦なく落とした爆弾は2時間余で1465トン。1坪(約3・3平方メートル)あたり1キロの爆弾が、十数万の市民の頭上に降り注ぎ、一晩で市内全域が焼き尽くされました。死者は3千人に迫りました。

 翌日から奥田さんと父親は、市に収容された母親の遺体を捜して焼け跡を歩き回りました。あちこちで人々が遺体を焼き、訪ねた収容先では焼死者が焦げた丸太のように積み上げられていました。

 3日目。母は寺の境内で見つかりました。

 「顔も着物も見分けがつかず、最後の決め手になったのは、もんぺのひもの下にしめていた細い帯と、帯に挟んでいた愛用の黒い財布でした」

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(写真)母の形見の帯と黒の財布、憲法の小冊子

 帯は、母が町会の節約運動で作った、残りぎれで織ったもの。財布には「一億一心」と刺しゅうが施されていました。

 2人は焼けたトタン板を拾い、その上に薪(まき)を並べ、遺体を置きました。石油をかけ、早く燃えるようにと新聞紙を固くねじって何度も薪の間に差し込みました。

 「心の中は冷え切って、汗は流れるが涙は出なかった。当時、日本中で同じような体験をした子どもは何百人といるのではないか」

 それから10日もせずに敗戦。「戦争って終わることができるんだと、負けたことより終わったことの方がはるかに衝撃だった」といいます。物心ついて以来ずっと戦争で、「永久に続くと思っていた」からです。

9条明かり見た

 敗戦後、おとなたちは「今までの教えは間違いだった」「国民はみなだまされていた」と言いだし、自分は将来、だまされない人間になろうと決意します。そんなころに、たまたま街頭でもらったのが、日本国憲法をやさしく解説したはがき大の小冊子『新しい憲法 明るい生活』です。

 「絵入りで、9条で二度と戦争はしないと誓った、と。もう戦争に行かなくてすむ! 憲法で保障された唯一信じられる現実だと、明かりが見えた思いがした」。このとき中学3年生でした。

 後に雑誌の編集に携わった奥田さんは、空襲の体験を『八月二日、天まで焼けた』(共著)に書きました(新装版2015年、高文研)。退職後、全国の空襲や戦争被害について本格的に調べ始めました。何冊もの分厚いファイルには手書きのメモや資料がびっしり。母が倒れた橋のそばを再び訪れるまで50年もの「ためらいの歳月」を要しました。

 「戦争は昔のことではありません」と奥田さん。「国民をだます側は、いかにだますか必死に考えています。9条をめぐる状況も同じです。一人一人が過去を正しく見ないと戦争は起こります。二度と同じ轍(てつ)を踏まないよう、若い人にそのことを知ってもらいたい。体験者は後に生きる人のためにつらさを乗り越え、勇気を出して体験を話してほしい」と語ります。(西口友紀恵)


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