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2019年8月22日(木)

証言 戦争

「皇恩」に縛られ29歳で戦死した兄 たった6文字の遺言書

東京・西東京市 井上忠清さん(80)

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(写真)家族の写真を示す井上忠清さん

 遺言書

一、「皇恩に報ゐん」 昭和十九年六月十一日

 井上忠清さん(80)=東京都西東京市=の実家の仏壇に入っていた長兄・嶋本良三さんの遺言書です。たった6文字の遺言書でした。

兄弟が次々召集

 井上さんは11人兄弟の末っ子。良三さんは23歳離れた兄で、顔も知りません。遺言書・遺髪とともに一通の手紙が保管されていました。

 手紙は、良三さんが亡くなった後、所属部隊の中隊長から母親に宛てたものでした。

 良三さんは1945年3月、ビルマ(現ミャンマー)のメイクテーラ(現メイッティーラ)の戦闘中に砲撃にあい戦死しました。手紙にはこう記されていました。

 「メークテーラ付近の戦闘は本当に悪戦苦闘」「戦車と飛行機に対し文字通り肉弾そのものの戦いでした」

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(写真)嶋本良三さんの遺言書と封書

 中隊長自身も手紙に「右腕その他を負傷」「一時意識不明」になったこと、「左手のペンになじまず誠に乱筆で失礼」と書いていました。

 良三さんには結婚して間もない妻がいました。再婚することもなく、実家に帰り親の介護などでその後ほぼ半世紀を過ごしました。

 旧「満州」(中国東北部)で医大を卒業した良三さん。「なぜ(軍医でなく)兵として召集されたのか」と母のコトキさんはいつも話していたと言います。

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(写真)長兄・良三さんの結婚式。前列左から2人目は幼少期の井上忠清さん

 長兄の死後、六男の道男さん(当時15歳)がコトキさんに無断で海軍飛行予科練習生(予科練)に志願してしまいました。次男、三男と息子が次々召集されていたコトキさんは、悲しみから「親子の縁を切る。二度とこの家に帰って来ることはなりません」と言い渡しました。

 後に道男さんは、校長室に急に呼び出され「志願兵として国のために命をささげるよう言われた」と語ったと言います。忠清さんは「当時15歳の兄に拒む力はなかったのでは」と話します。

 道男さんの回想記によると、45年8月15日の終戦後、鳥取県の予科練から故郷に向かう足は「鉛のように重く」「勘当された身が迎え入れられるだろうか」と胸がふさがっていました。同8月末の午後、故郷の駅に降りると、驚いたことにやせ細った母が忠清さんと一緒に駅に迎えに来ていました。

 「おまえがしょんぼりと帰って来るんじゃないかと毎日駅に迎えに来ていた」と―。

 次男は復員しましたが、翌年死去。フィリピンで敗戦を迎えた三男・光高さんが帰宅したのはそれから2年後でした。

憲法を次世代に

 今では長兄の残した“6文字”の意味がはっきり分かるという忠清さん。いったんことがあれば天皇のために命を投げ出せと教え込んだ「教育勅語」にしばりつけられていたと言うのです。

 忠清さんは終戦の翌年小学生となりました。1年生の11月3日に日本国憲法が公布され、2年生の5月3日、発効しました。

 「私は人生のほとんどすべてをこの憲法のもとで生きてきました。この憲法こそが私の宝です。これを守り抜いて次の世代に引き継いでこそ、先の戦争で死んだすべての人とその家族へ顔向けができると考えています」(和田育美)


 メイクテーラ会戦 第2次世界大戦末期、ミャンマー中部の都市メイクテーラ(現メイッティーラ)を占領していた旧日本陸軍と英国陸軍との戦闘。戦車など車両3000両以上を装備する英国軍が1945年2月28日にメイクテーラへの攻撃を開始し、3月3日には制圧します。日本軍は15日から奪還を目指し肉弾戦や夜襲をしかけますが、有効な対戦車火器などがなく、撃破され29日までに戦闘は終結します。日本軍は大戦中、ミャンマーに約33万人の兵力を投入しますが6割近い約19万人が戦没しています。


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