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2019年8月18日(日)

証言 戦争

「震える少女」 私です

那覇市 浦崎末子さん(81)

 太平洋戦争で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。その悲惨さを象徴する場面として戦後、全国に伝えられた米軍撮影の記録映像、米兵を前に「震える少女」を「私だった」と名乗りでた浦崎末子さん(81)=那覇市小禄=。「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)。戦争が憎い」。当時の戦場跡、高嶺村大里(現在の糸満市)を74年ぶりに訪れ、家族4人をはじめ、幼友だちなど多くの命を奪った沖縄戦への浦崎さんの記憶は今も鮮烈です。(山本眞直)

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(写真)米軍撮影の映像で、恐怖のあまり、座り込んだまま体をがたがたと震わす少女(沖縄県公文書館提供)

 映像は、高嶺村大里の農道に座り込んだ「少女」・浦崎さんが、2人組の米兵から水筒で水をもらいながら、がたがたと体をふるわせる姿を映し出しています。

 浦崎さんは6人きょうだいの三女で上に姉と兄が2人ずついました。

 浦崎さんは、米軍の艦砲射撃や爆弾から逃れ15歳上の次女と避難場所を捜していました。その次女が別行動だった母と三男を捜すから、ここで座っているようにと言われ、夜明け前の暗闇の中、1人でいました。

 浦崎さんは、当時の撮影現場の農道で、まだ7歳だったころの不安と恐怖の体験を、こう証言しました。

 「アメリカー(米兵)を目の前で見るのは初めてで、青い目が怖かった。見慣れない撮影機が何か武器に見え、撃たれるのではないかと怖くなり、がたがた震えた」「米兵が差し出した水筒やお菓子は姉たちから『米軍の食料には毒が入っているから食べてはだめだ』と教わっていたので手をつけなかった」

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(写真)沖縄戦で、集落の奥深くに侵攻し、掃討作戦を実施する米軍戦車と海兵隊の歩兵部隊(沖縄県公文書館提供)

 浦崎さんともどってきた次女は、その日のうちに米軍が越来村(現、沖縄市)に設置した収容所に移されました。母と三男にも3日後に再会しましたが、母のいない寂しさと不安で毎日、泣き明かしたといいます。

 三男はその後、避難中に受けた米軍の催涙弾の後遺症で死亡。父と長男も戦死し、次女も戦時中の傷がもとで亡くなりました。8人家族のうち、生き残ったのは4人だけでした。

少女を震えさせた沖縄戦

“恐ろしい 二度とだめ”

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(写真)太平洋戦争の末期、沖縄戦で米軍が撮影した記録映像の「震える少女は私だった」と名乗り出て、当時の撮影現場とされる農道で「戦争が憎い」と証言する浦崎末子さん=糸満

 「震える少女」は私と名乗り出た浦崎末子さん。この少女を自分と重ね合わせ「似ている」と初めて感じたのは2005年の戦後60年特集のテレビ報道でした。しかし「自分だ」と言えるまでの確信が持てませんでした。

 そんな浦崎さんが「この写真は私だよ」と雑誌に掲載された「震える少女」を手に、はっきりと打ち明けたのは2年前のお盆の頃のこと。突然の告白に、近くに住み、浦崎さんをネーネー(沖縄方言で姉さんのこと)と慕っているめいの明子さん(仮名)は「まさかー」と聞き流しました。

 しかし今年にはいって、明子さんは知り合いを通じて「震える少女」などの沖縄戦の記録映像を作成した「1フィート運動の会」で当時、映像の編集を担当した山内榮元琉球大学非常勤講師に相談しました。

映像を確認して

 山内さんは保管してある一連の映像で確認した結果、「映像は、高嶺村大里付近で沖縄戦末期に撮影されたものとみられ、話からも本人である可能性は高い」としました。

 なぜ映像を“私だ”と確信できたのか―。浦崎さんは、まよわずに証言しました。

 「身につけている服は、近所のおばぁが着物をほどいて作ってくれた柄とおなじだった。座っていた場所は、アンマー(母親のこと)と一緒に、頭の上に芋などの野菜をのせていつも町まで運んだ通り道だったから覚えていた」

 浦崎さんは、「震える少女は私」と名乗り出てから、仲の良いおばぁや明子さんらとのユンタク(方言でおしゃべり)の場で「戦争と平和」が話題になると言います。

 浦崎さん一家は米軍の攻撃が激しくなり、高嶺村与座から同村大里に避難していました。与座区自治会の「与座の歩み」は過酷な沖縄戦の実態をこう記述しています。「沖縄戦の中でも与座は激戦地であり、与座に住んでいた約4割もの住民が戦没し、家屋・緑が焼き尽くされた」

 1フィート運動の会が、米国立公文書館から取り寄せた記録映像には、住民を巻き込んだ過酷な沖縄戦の状況が映し出されています。

 ―大里や与座付近とみられる山林の「ガマ」とよばれる住民や日本兵が逃げこんでいる避難壕(ごう)などに向けて容赦なく放たれる戦車からの火炎放射や砲弾の連射。

 ―日本兵か住民かの区別のつかない黒く焦げた死体が横たわる道を進軍する米軍。

 ―集落の奥深くまで侵入して砲撃を繰り返す戦車と海兵隊の歩兵部隊、など。

「誰が悪いのか」

 浦崎さんは、つぶやきました。「こんな戦争を仕掛けたのは誰か、誰が悪いのか」と。

 参院選のとき安倍首相の「憲法9条への自衛隊明記」の報道に、あるおばぁがこう言ったといいます。「また戦の準備かねー」

 艦砲射撃や焼夷(しょうい)弾が着弾するたびに地面にふせ、米兵に囲まれた恐怖で体を「震わせた」当時の農道は、夏草に覆われています。脇を流れる小さな水路、小高い丘の森をいとおしむように見渡しながら、浦崎さんは目に涙をにじませ、力を込めました。

 「戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはだめだ)」


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