2019年8月15日(木)
証言 戦争
東京・町田市 宮良幸宏さん(80)
疎開船が漂着 飢餓地獄
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第2次世界大戦・日本の敗戦直前の1945年7月3日。沖縄県石垣町から台湾に向かった疎開船2隻が、米軍機の空襲を受け遭難し、無人島の尖閣諸島・魚釣(うおつり)島に漂着しました。「尖閣諸島戦時遭難事件」です。当時6歳だった東京都町田市の宮良幸宏(みやら・ゆきひろ)さん(80)は、家族8人で約50日間の飢餓生活を余儀なくされました。
疎開船団は6月30日、老人、女性、子どもら約180人を乗せ石垣島を出港。7月3日の白昼、米軍のB24爆撃機に発見され空襲を受けました。
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2隻のうち「一心丸」は機銃掃射や爆弾などを受け炎上、沈没、約50人の水死者を出しました。宮良さん家族と約90人が乗った「友福丸」も機銃掃射を受けエンジンが破損。航行不能になりました。
宮良さん自身も頭の左に弾がかすり出血。「幸宏がやられた!」。次女の信子さん=当時(12)=が叫びました。傷は浅く弾は船底を貫通し海水が浸入しました。銃創は今も残っています。
船は死者を乗せたまま一昼夜漂流。4日、石垣から北西に約170キロメートル離れた、魚釣島(3・6平方キロメートル)に上陸。一時滞在の予定が3日後、護衛の兵隊が疎開船を流失してしまいました。絶海の孤島に閉じ込められ、石垣に戻るも台湾に渡るも不可能に。宮良さんは「疎開船の流失は、故意か過失か軍人からの釈明はなかった」と憤ります。
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一家が石垣から持ってきた、わずかなコメは軍人に供出させられました。食料は島の原野をうろつき、時に争い、雑草などを自分で探し飢えをしのぐ、過酷なものでした。老人や子どもが「飢え」で次々と倒れ、30人ほど亡くなりました。
幸い疎開者の中に船大工がいて、サバニ(沖縄のボート)を造って8月12日、“決死隊”(連絡員)が、石垣を目指し出発。14日に石垣の守備隊に連絡。19日、救助船で家族全員が生還できました。
宮良さんは無人島での体験を「50日にわたる無人島の生活は戦争の縮図。『飢餓地獄』と理不尽な『軍人の横暴・無策』だった」と告発します。
軍人が護衛放棄 コメ奪う
スズメ8人で分け合い飢えしのぐ
1945年6月23日。日本国内で住民を巻き込んだ「唯一の地上戦」沖縄戦の組織的な戦闘が終結。1週間後の6月30日、2隻の疎開船で石垣から台湾の基隆(キールン)港を目指し出航。宮良幸宏さん(80)一家も、母と7人の子どもが乗り込みました。
宮良さんは「疎開者には守備隊の『軍命』による強制疎開に感じた。(女性や子どもは)足手まといだ…」と。
疎開船団は台湾近海で米軍の空襲を受けます。米軍機は洋上を何度も旋回。「飛行機が来たぞー」の声で船倉にいくも隠れる場所はなし。甲板にいた子どもたちは、弾が当たって血を流し動けなくなりました。船内で頭を隠し荷物の間や人の後ろに隠れるも上から、ダダダダーと機銃掃射が…。
長女の和子さん=当時(13)=が顔を上げると「超低空の若いパイロットの顔が見えた」といいます。宮良さんは「パイロットも船で逃げ場を失った多くの老人や子どもがよく見えたに違いない。船内は血の海となり、即死する者、泣き叫ぶ負傷者で船内は阿鼻(あび)叫喚でした」
元気な人は「安全だ」と海に飛び込みました。姉も「海に飛び込もう」というと、母の幸子さんが「死ぬなら家族一緒」と考え、末の子(当時0歳)のおんぶひもを、家族8人全員にくくりつけ船内にとどまりました。
尖閣諸島に漂着
「友福丸」は一昼夜漂流し尖閣諸島・魚釣島に漂着。軍人が船を流失してしまい、生き残った人たちも島に取り残されてしまいました。
隊長は訓示を垂れ「帝国軍人は天皇陛下をお守りするのが役目。今日から自活しろ」「めそめそすんな。人肉を食ってでも、強い者が生き残るのだ。弱い者から先に死ぬぞ」とうそぶき、護衛の責任を放棄しました。
宮良さん家族の所持品は、いくらかのコメとかつお節。お釜、鍋、マッチなど。コメは軍人に供出させられました。共同炊事で出された雑炊は、わずかなコメに雑草を入れた粗末なものでした。コメは「兵隊が貯蔵しているのだろう」とうわさされました。
炊事は自炊になり、かつお節をかじり、雑草は苦くないもの、水辺にある柔らかいものをお汁に。母が足を捻挫し、食料調達は姉の和子と信子が中心に。
人のうわさを伝って探した一番の収穫はヤドカリでした。50日で一度だけのごちそう。鍋で転がし殻をとって食べました。
思いがけないごちそうは、小さなスズメの死骸を見つけたことです。ゆでて毛をむしって8人で食べました。一つまみの肉片をピッピッと割いて、骨に着いた脂肪をしゃぶりました。今でも味が忘れられません。
宮良さんは「1週間食べないと動けなくなる。日に日に衰弱し栄養失調で老人が死に、幼児が死ぬ。結局、だれも守ってくれなかった」と振り返ります。
日本軍の敗戦も知らず8月19日、石垣に救助船で帰島。すぐに当時3歳の5女と0歳の次男が亡くなりました。母は乳首を思い切りかんだ乳飲み子を「痛かった。でも、この子の方が私よりつらかったに違いない」と泣きました。
憲法9条は憧れ
宮良さんは1995年に体験記を『あほうどりのちかくで―かあちゃんの尖閣列島遭難記』(近代文藝社)にまとめました。
宮良さんは力説します。「安倍首相は反対意見や多様性を認めない。軍備は拡張する。知らず知らずのうちに戦争に近づいている。武力に頼らない憲法9条は憧れ。安倍さんは民意を無視し、戦争をやろうとする危険な方向だ。九条をいかした日本、世界にしたい。戦争はしちゃいけない」(遠藤寿人)