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2019年8月14日(水)

証言 戦争

弟は歩けず、みんな飢え

山形県川西町在住 須藤やゑさん(78)

写真

(写真)山形県川西町在住 須藤やゑさん(78)

 須藤やゑさん(78)は敗戦の4年前、1941年に山形県伊佐沢村(現長井市)の農家に生まれました。父が戦地に行き、母は一つ下の弟を出産して45日後に肺炎で死去。弟は栄養不足で3歳になっても歩けませんでした。

 ある日こたつの火が弟の服に移って大やけどを負い、とうとう歩くことのないまま亡くなってしまいます。祖母と二人きりの生活になりました。

 食べ物は乏しく、米の代わりにササの実を取って食べる人もいました。須藤さんはサツマイモが糧で、もっと貧しい家は米と大根を糧にしていました。

弁当はキュウリ

 戦闘機の燃料にする松根油を取るため、近所の人が裏山で松の木の根を掘り返しに来ていたときのことです。その人たちが帰ってしばらくのちに、家の周りに生えていたフキがすっかり刈り取られていたことに気づきました。「みんな飢えていたんですね」

 戦後、須藤さんは小学校に入学しました。学校に持っていった弁当のおかずはキュウリに塩をまぶしただけ。「朝、塩をまぶすと昼ごろちょうどいい具合になる」と笑いますが、当時は恥ずかしくて腕で隠しながら食べました。

 それでも弁当を持ってこられなかった子たちに比べればよかったと思っています。戦後数年は都会から疎開してきた子どもたちがまだ残っていました。弁当を持ってこられなかったのは疎開児童だったと記憶しています。「食べずにじっと座って過ごしていた。かわいそうだったと今でも思う」

 2、3歳のころ、農夫だった父が「カーキ色の兵隊服を着ていた」とぼんやりと覚えています。たぶん軍隊に入隊するときの記憶です。敗戦を迎え、戦死の公報が届いたはずの父が帰ってきました。10キロ離れた赤湯駅から「線路沿いに歩いた」といっていました。

父親の戦争体験

 父が所属した部隊で復員したのは父だけ。部隊は中国から「転進」したフィリピンで全滅し、気管支炎で入院していた父は生き残りました。「一緒にフィリピンに行きたかった。悔しくて泣いた」と須藤さんに話しました。

 近所の復員仲間が訪ねてきたとき、父がその人に現地の話をしているのを聞きました。「生身の人間が解剖されるうめき声を聞いた。スパイ嫌疑をかけられた人が首を切られ、血がバーッと噴き出した」。須藤さんは衛生兵だった父が731部隊を見たのではないかと考えています。

 近所の人は「おれもチャンコロ(中国人の蔑称)の耳から耳に針金を通した」と応じていました。その頃は幼くてわかりませんでしたが、「なんと残虐なことをしたもんだな」と思うようになりました。「ややもすると、おれらは被害者意識で戦争を見るわけだ。でも中国や南方の人たちにひどいことをした」

 今の学校教育での「日の丸・君が代」強制や道徳の教科化を「『日の丸』におじぎして戦争中みたい。愛国心教育と変わらないものを植え付けるんでねえんだかなあ」と懸念します。

 「みんな戦争で苦労してきた姿を見て来たし、あんなこと繰り返してなんねえ。安倍首相らは9条改憲をあきらめていねえわけだから、阻止したい」

(小梶花恵)


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