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2019年4月29日(月)

中国五・四運動100年 権益侵す日本に抗議

学生デモをたどる

 今年は1919年に中国で起きた五・四運動から100年の節目の年です。中国の権益を侵す日本に対し、北京大学の学生が抗議のデモを行ったことを契機に、日本製品のボイコット運動や工場のストライキなど中国全土の抗議行動に発展。その後の日本の侵略に反対する中国の闘争にも大きな影響を与えました。100年前の学生たちに思いをはせながらデモの道のりをたどりました。(北京=釘丸晶 写真も)


のぼり準備し出発

(1)北京大「紅楼」

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(写真)北京大学の主要校舎だった紅楼

 デモ行進が始まった当時の北京大学の校舎は、赤レンガで造られており、「紅楼」と呼ばれています。北京大学の学生は1919年5月4日、ここから天安門までデモ行進し、他大学の学生と合流して抗議集会を開きました。

 集会で使われたのぼりなどは紅楼の一室で作られました。

 現在は「北京新文化運動記念館」として無料公開されています。4月23日からは五・四運動の特別展示も始まり、当時の新聞や写真が解説付きで展示されています。

 訪れた日は、多くの学生が見学していました。展示を熱心に見ていた大学1年生の男性は「当時の学生は信念があった。今の学生にも信念が必要だ」と話しました。

13大学の3000人集う

(2)天安門

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(写真)五・四運動当時の北京の学生の街頭演説(陳平原ら主編『触摸歴史 五四人物与現代中国』広州出版社、1999年)

 紅楼を出て、五・四運動を記念して名付けられた「五四大街」を西に向かい、故宮(紫禁城)東側の城壁沿いに南下すると、学生らが抗議集会を開いた天安門前に着きます。

 北京大学をはじめ13大学の学生約3000人が集まり、のぼりやプラカードを手に、パリ講和条約の調印拒否、日本が中国に突きつけた「21カ条要求」の撤回、親日派閣僚の罷免などを求めました。

 その後もたびたび歴史の舞台に登場してきた天安門。89年の民主化運動の際には、天安門広場で学生が「五・四運動の精神を発揮しよう」と書かれた横断幕を掲げました。

面会を求め嘆願書

(3)各国公使館街

 学生の抗議のデモ隊は天安門から各国の公使館区域である東交民巷(とうこうみんこう)に向かい、英国、フランス、イタリア、米国の4カ国の公使に面会を求めました。米国公使館の書記官だけが対応し、学生らは嘆願書を手渡しました。

 かつて各国の在外公館のあった東西1552メートルの通りには現在、最高人民法院、北京市公安局など公的機関が置かれ、当時と同じように市民を威圧しているように見えました。

全国に行動広がる

(4)親日派閣僚邸

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(写真)趙家楼跡の門に飾られている五・四運動のレリーフ

 その後、一部のデモ隊が過激化し、親日派の閣僚とされた交通総長・曹汝霖(そう・じょりん)の私邸「趙家楼」に向かいました。曹氏は、パリ講和条約で山東省の権益に関し、日本の意思に沿って解決するよう進言したとされています。デモ隊は、趙家楼に火を放ち、その場に居合わせた駐日大使・章宗祥を負傷させました。

 政府は学生ら32人を逮捕しましたが、学生らの釈放を求めて抗議行動は全国に拡大。労働者が学生に同調してストライキを組織し、特に経済の中心であった上海での労働者のストは政府を震え上がらせました。

 50年代に取り壊された趙家楼の跡地には、ホテルが建てられています。門には五・四運動のレリーフが飾られていました。

地図:五・四運動関連地図

歴史の転換点

 学生が始めた大規模な運動は政府を動かし、逮捕された学生の釈放、親日派閣僚の罷免、中国代表団によるパリ講和条約の調印拒否などを勝ち取りました。中国社会科学院世界歴史研究所研究員で中国日本史学会名誉会長の湯重南さんは本紙に、「学生運動と労働者の運動が結びつき、重要な歴史の起点となった。五・四運動は新民主主義革命のスタート、中国現代史の端緒、歴史の転換点になった」と強調しました。


 五・四運動 第1次世界大戦(1914~18年)後のパリ講和会議で、日本が奪った山東省の旧ドイツ権益の返還などを求めた中国の主張が退けられたのを受け、19年5月4日、北京大学の学生ら約3000人が天安門前で抗議した運動。その後、中国全土に広がりました。当時の中国に西洋の思想が入り、学生の中に自由や民主の気風が広がっていたことが背景にありました。


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