2019年3月8日(金)
主張
「君が代」の強制
社会・教育のあり方が問われる
子どもたちの新たな出発を祝い励ます卒業式・入学式のシーズンです。30年前に文部省(現文部科学省)が学習指導要領で、式では国旗を掲揚し、国歌の斉唱を「指導するものとする」として以来、学校への「日の丸・君が代」の強制が強まりました。今では多くの学校で「君が代」の起立斉唱が行われています。しかし、ここには日本の社会と教育にとって、あいまいにできないことがあります。
歌わない自由も保障を
一つは、「日の丸・君が代」強制が、憲法の保障する思想・良心の自由を侵していることです。
「君が代」を歌いたい人もいれば、歌いたくない人もいます。民主主義の国として、歌う自由も歌いたくない自由も、等しく尊重されるべきです。
「日の丸・君が代」が日本の侵略戦争のシンボルとして使われたことは歴史の事実です。「君が代」の歌詞には、天皇の世が永遠に続くようにという主権在民に反する内容が含まれています。歌いたくない気持ちは、日本の歴史や民主主義の問題、あるいは自らの信仰とのかかわりを考えた末のもので、切実なものです。歌いたくない人に「歌え」と強制することは、その人の思想・良心の自由、内心の自由を深刻な形で侵害することになるのは明らかです。
たしかに法律は、「日の丸・君が代」を国旗・国歌と定めています。しかし政府は国会で「国民への強制はしない」と明言しました。国旗国歌法が許しているのは「日の丸・君が代」を国の象徴として国家行事等に使用することであり、それにどんな態度をとるかは自由です。東京都などで行われているような処分を振りかざして教職員に強制するやり方は、最高裁で「思想・良心の間接的な制約になる」とされてきました。
日本でも世界でも、さまざまな人権侵害があとを絶ちません。未来をつくる学校でこそ、「日の丸・君が代」には賛否両論があり歌う自由も歌わない自由も保障されることを、子どもたちが学べることが大切です。
もう一つの問題は、「日の丸・君が代」強制が契機となり、議論なしに上から押し付けるやり方が、学校運営全般に広げられてきたことです。教職員が合意をつくって運営してきた多くの学校が、「議論しない学校」「上意下達の学校」に変えられていきました。
「日の丸・君が代」強制をめぐる裁判でも、最高裁の裁判官が「自由で闊達(かったつ)な教育が実施されていくことが望まれる」とのべています。目の前の子どもたちのさまざまな姿を語り合い、どんな教育をしていくかを話し合ってこそ、学校はその役割を発揮することができます。そんな学校を、立場の違いを超えて、つくっていこうではありませんか。
学習指導要領を改めて
卒業式や入学式は、子どもの成長や門出を祝う大切な場です。その式に「日の丸・君が代」をやるかどうかだけを振りかざし、従わない教職員や生徒を抑圧し、学校から自由を奪ってきたのが、冒頭指摘した学習指導要領です。
学習指導要領を改め、教育委員会も強制をやめるべきです。どういう式にするかは、学校で子どもや保護者の意見もふまえて、話し合って決められるようにすることを改めて呼びかけます。