日本共産党の志位和夫委員長が18日の党創立93周年記念講演会で行った「戦争法案阻止へ―空前の国民的たたかいを」と題した講演は次の通りです。
戦争法案阻止へ――空前の国民的たたかいを
国民に追い詰められての強行採決――戦争法案廃案へ、世論と運動を広げに広げよう
お集まりのみなさん、インターネット中継をご覧の全国のみなさん。こんにちは(「こんにちは」の声)。ご紹介いただきました、日本共産党の志位和夫でございます。きょうは、ようこそお越しくださいました。心からお礼を申し上げます。(拍手)
それから、たいへん心のこもったメッセージをいただいた、小林節さん、瀬戸内寂聴さんにも、感謝の気持ちを申し上げたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
私たちは、今年の党創立記念講演会を、安倍政権が進める戦争法案との激しいたたかいのさなかで迎えました。
政府・与党は、(7月)15日の衆議院安保特別委員会、16日の衆議院本会議で戦争法案の強行採決を行いました。
日本の主権者は国民であります。どんな世論調査でも、国民の5割以上が「憲法違反」と批判の声をあげ、国民の8割が「政府は納得のいく説明をしていない」と答えている法案を、数の暴力で強行することは、憲法9条に反するだけでなく、国民主権の大原則に反する許し難い暴挙であります。
私は、まずみなさんとともに、政府・与党の歴史的暴挙に、満身の怒りを込めて、断固たる抗議の声を突きつけるものであります。(大きな拍手)
一部メディアは、「安保法案は今国会で成立へ」などと報じています。とんでもありません。政府・与党による強行採決は、空前の規模で発展しつつある国民の世論と運動に追い詰められた結果です。そして、当然のことですが、一つ強調したいことがあります。予算案や条約と違って、法案には「自然成立」はありません。政府・与党が戦争法案を成立させようとすれば、参議院で再び強行採決するか、衆議院での「3分の2」以上での強行再議決が必要となります。国民的運動を広げに広げ、圧倒的世論で安倍政権をさらに追い詰めるならば、採決不能の立ち往生に追い込むことは可能であります。(拍手)
たたかいはこれからです。みなさん、平和と民主主義を希求する国民の巨大なエネルギーに自信をもって、戦争法案を必ず廃案に追い込むために、頑張りぬこうではありませんか。(大きな拍手)
「違憲性」――憲法9条を蹂躙する最悪の違憲立法
国会論戦を通じて、戦争法案の恐るべき危険性が浮き彫りになるとともに、この法案が一かけらの道理も持たないことがはっきりしました。
私は、それを三つの角度から訴えたいと思います。
第一の角度は、「違憲性」――日本国憲法を蹂躙(じゅうりん)する最悪の違憲立法であるということであります。わが党は、戦争法案には、憲法9条を破壊して、「海外で戦争する国」に道を開く三つの大問題があることを追及してきました。
「戦闘地域」での兵站――憲法違反の武力行使に道を開く
攻撃されたら「武器を使用する」――憲法9条が禁止した武力行使そのもの
第一は、アメリカが、世界のどこであれ、アフガニスタン戦争、イラク戦争のような戦争に乗り出したさいに、従来あった「非戦闘地域」という歯止めを撤廃し、自衛隊がこれまで「戦闘地域」とされてきた場所にまで行って、弾薬の補給、武器の輸送などのいわゆる「後方支援」――兵站(へいたん)を行うようになるということです。
私は、一つひとつ、安倍首相に質(ただ)してきました。
「『戦闘地域』まで行けば自衛隊が相手から攻撃されることになりますね」。首相は「その可能性はある」と認めました。さらに私は「攻撃されたら武器の使用をすることになりますね」と質しました。首相は、しぶしぶ「武器の使用をする」と認めました。そこで私は、「自衛隊が武器の使用をすれば、相手はさらに攻撃し、まさに戦闘をすることになるではありませんか」と質しました。
首相は、「武器の使用」は認めても、それが戦闘になる、武力行使になるとはかたくなに認めようとはしませんでした。一たびそれを認めたら、その瞬間に、この法案が憲法違反であることを自ら告白することになり、廃案になってしまうからです。
しかし、「武器の使用」といいますが、自衛隊がイラクのサマワに持っていった武器とはどのようなものだったのか。国会で使ったパネルですが、持ってまいりました。こういうものなのです。政府は、110ミリ対戦車弾、84ミリ無反動砲、12・7ミリ重機関銃などを持っていったことを初めて認めました。文字通りの重装備です。
さらに、自衛隊はイラク派兵のさいに、どんな訓練をしていったのか。わが党の議員が、国会で明らかにした陸上自衛隊の内部文書には、「制圧射撃」の訓練を行っていたことが明記されていました。「制圧射撃」とは、機関銃などで連続射撃を加え続け、いわゆる「弾幕」を張って敵に損害を与え、その自由行動を阻止する射撃のことです。そういう訓練をして、イラクのサマワに行ったのです。
「非戦闘地域」での「人道復興支援」が建前だった活動でも、これだけの武器を持っていき、「制圧射撃」の訓練も行っていました。それが「戦闘地域」での「後方支援」=兵站となれば、さらに強力な武器を持っていくことになるでしょう。そうした武器を使ってたたかう――これが戦闘でなくて何なのか。憲法9条が禁止した武力の行使そのものではありませんか。(「そうだ」の声、拍手)
「後方支援」「武器の使用」「一体化」――世界ではおよそ通用しない
政府は、それが憲法違反であることをごまかすために、世界のどこにも通用しない三つの言葉、概念を用いてきました。
私は、先日、外国特派員協会でこの話をしたのですが、世界のどこにも通用しない言葉ですから、英語に翻訳してもらうのは大変でした。通訳の方も苦労したと思います。
一つは、「後方支援」という言葉です。この言葉は、日本政府だけが使っている造語なのです。国際的には兵站=「ロジスティクス」と呼ばれています。兵站には、「前方」とか「後方」などの意味は含まれていません。だいたい、戦場に標識が立っていて(笑い)、ここから先が「前方」(笑い)、ここから後が「後方」などということはありえないではないですか。「後方支援」という言葉は、自衛隊が行うのは、あくまでも「後方」での「支援」であって、「前方」には行かないと思わせるゴマカシの言葉にほかなりません。もっとも論戦をしていきますと、安倍首相は、せっかくつくった「後方支援」という言葉を忘れてしまい、党首討論の短い7分の時間の間に、「兵站」という言葉を自ら3回も使いました(笑い)。「兵站」という真実の言葉がだんだん浸透しているように感じます。
二つ目は、「武器の使用」という概念です。首相は、自衛隊が「戦闘地域」で兵站を行うさいに、相手から攻撃されたら「武器の使用をする」ことを認めました。しかし、「武器の使用をするが武力の行使にあたらない」などという、わけが分からないことを(笑い)言い張るのです。そこで私は、外務省に、「『武器の使用』という国際法上の概念があるのか」と質しました。外務省から文書で回答が寄せられました。「国際法上、『武器の使用』という特別な概念や定義があるわけではございません」というものでした。国連憲章や国際法などのどの文言を見ても、「武力の行使」とは別の「武器の使用」などという概念や定義そのものが存在しないのです。「武器の使用は武力の行使ではない」などという屁理屈(へりくつ)は、世界ではおよそ通用するものではないことが明らかになったということを、ご報告したいと思います。(拍手)
三つ目は、「武力行使との一体化」という概念です。政府は、「他国の武力行使と一体でない後方支援は武力の行使にあたらない」と言っています。そこで私は、6月17日の党首討論で、「『武力行使と一体でない後方支援』という国際法上の概念が存在するのか」と質しました。この問題でも、安倍首相は、「国際法上、そういう概念はありません」と答えざるをえませんでした。この概念が、世界で通用するものではないことを認めたのであります。ちなみに、昨年7月1日に行われた集団的自衛権行使容認の「閣議決定」の日本政府による英訳で、「武力行使との一体化」をどのように翻訳しているのかを見てみますと、何とそのままローマ字で「ittaika」(笑い)と書いてありました。この概念は、英語に翻訳しようとしても翻訳できない言葉なのです。
こうして、「後方支援」も、「武器の使用」も、「一体化」も、世界のどこにも通用しない概念だということがすっかり明らかになりました。憲法違反ではないといってきた政府の「根拠」はことごとく崩れたのであります。
憲法9条のもとでは、もともと自衛隊の海外派兵など不可能です。それを無理やり取り繕おうとするから、政府は、世界のどこにもない架空の概念をつくりだすという矛盾に陥っています。地球の裏側まで自衛隊を派兵しようとしながら、世界のどこにも通用しない概念を盾に、自衛隊が行う「後方支援」は武力行使にあたらない、憲法違反ではないなどという詭弁(きべん)を言い募ることは、断じて許されるものではありません。(大きな拍手)
安倍政権の存在こそ、日本にとっての最大のリスク
この論戦をやっていきますと、安倍首相が苦し紛れに繰り返すのは、「(後方支援は)安全な場所を選んでやる」(笑い)ということです。しかし、古くから「糧道を断て」というではありませんか。兵站が格好の軍事攻撃の目標となることは、軍事の常識であります。自衛隊が兵站を行っている場所が戦場になるのです。
首相は「リスクが高まることはない」とも繰り返します。しかし、これまでできなかった「戦闘地域」での兵站を可能にしておいて、リスクが高まらないわけがないではありませんか。その当たり前の事実さえ認めようとしない安倍政権の存在こそが、日本にとっての最大のリスクだと言わなければなりません。(大きな拍手)
「戦闘地域」での兵站は、憲法9条に違反する武力の行使にあたり、「殺し、殺される」戦闘に道を開く――そのことが明らかになったのが、国会論戦の到達点だということを報告しておきたいと思います。
日本を「対テロ戦争」の泥沼に引きずりこむ暴走を許してはならない
そしてここに、きわめて深刻な現実的危険があることを訴えたい。
山崎拓元自民党幹事長は、日本記者クラブの講演でこう言いました。「今度の安保法制が整備されると、私が非常に恐れることは、対イスラム国(IS)に自衛隊が後方支援という体裁で動員されることだ」。
政府は、「ISへの空爆の後方支援は考えていない」といいます。しかし、わが党議員の質問に対して、戦争法案が通れば、法律上は、ISへの空爆に対する軍事支援が可能になることを、政府は否定しませんでした。
私は訴えたい。アメリカが、地球的規模で行う「対テロ戦争」に自衛隊が参戦する。「殺し、殺される」底なしの「対テロ戦争」の泥沼に日本を引きずりこむ。このような危険な道への暴走は断じて許してはなりません。そのことを強く訴えたいのであります。(拍手)
戦乱が続く地域での治安活動――「殺し、殺される」戦闘に容易に転化する
約3500人の戦死者を出したISAF――参加の可能性を否定せず
第二に、PKO法の改定によって、国連が統括しない、PKOとは関係のない活動にも自衛隊を派兵する仕掛けが新たにつくられようとしていることも、きわめて重大です。
形式上は「停戦合意」があるけれども、なお戦乱が続いているようなところに、自衛隊を派兵して治安活動をさせる。武器使用基準も、自己防護だけでなく、任務遂行のためのものも認めるなど、格段に拡大しようとしています。
私は、国会質問で、こうした法改定がなされれば、2001年から2014年までの期間、アフガニスタンに展開した国際治安支援部隊=ISAFのような活動に自衛隊を参加させることが可能になるのではないかと質しました。安倍首相はISAF型の活動への参加の可能性を否定しませんでした。これはきわめて重大です。
ISAFは、米軍主導の「対テロ」掃討作戦と混然一体となり、約3500人の戦死者を出しています。アフガニスタンの現場では何が起こっているのか。私は、国会質問で、55人の兵士の犠牲者を出したドイツ軍の実例を紹介しました。ここでは43人の兵士が犠牲となって死亡したデンマーク軍の実例を紹介したいと思います。
デンマークのドキュメンタリー映画「アルマジロ」の告発
デンマークで2010年に公開された「アルマジロ」というドキュメンタリー映画があります。ISAFの最前線基地「アルマジロ基地」に駐留するデンマーク軍の若い兵士たちの半年の軍務に密着したドキュメンタリーですが、公開と同時にデンマーク社会に深刻な衝撃を与えました。
私は、DVDで見ましたが、すべて実写であり、きわめて衝撃的な映像が続きます。「アルマジロ基地」は、タリバン勢力のすぐ近くに陣を構え、タリバンの動きを監視パトロールし、タリバンによって被害をこうむったアフガニスタン住民を救い、治安を安定させることを任務とする部隊です。ところが、パトロールといっても、住民とタリバンの見分けがつきません。住民からは外国軍への冷たい視線が向けられます。そうしますと、まわりの全てが敵に見えてくる。ある兵士は「(世界の)70億人すべてが敵だ」という。迫撃砲を撃ったところ幼い女の子を殺害してしまいます。しだいにパトロールはエスカレートし、奇襲作戦が開始されます。タリバンとの激しい銃撃戦の末、デンマーク軍は負傷したタリバンの兵士5人全員を、トドメを刺す形で殺害します。戦慄(せんりつ)すべき凄惨(せいさん)なシーンであります。
この映画の監督のヤヌス・メッツ氏は、つぎのように語っています。
「文明国デンマークの若者が、粗暴で残虐で野蛮な兵士になってアフガンで人を殺している。市民は戦闘によって家族を失い、家を壊され、家畜を殺され、畑を荒らされた。自由で民主的な国をつくるはずの軍隊が市民の生活を悪く変えている」「よりよい世界をつくるための軍事行動が逆に市民を苦しめ、新たな敵意、テロリストを生み出している」「日本人は、過去の戦争を通じて、戦争に参加することが何を意味するか分かっていると思う。忘れているのなら、思い出して議論すべきだ。そうすれば、政治に対して責任ある行動を取れると思う」。
治安活動と戦争に境目はない――ここにもう一つの深刻な現実的危険が
このドキュメンタリー映画を見ましても、紛争地の治安活動というのは、生やさしいものではないことを痛感します。それは容易に「殺し、殺される」戦闘に、武力行使に転化します。治安活動と戦争の間に境目などありません。そのことは、過去の戦争で、私たち日本国民が深刻な形で体験したことではないでしょうか。
そして私がここで強調したいのは、ISAFの活動そのものは昨年12月で終了していますが、アフガンの治安部隊を支援するRS任務=「確固たる支援任務」には、今なお42カ国、1万3千人以上が参加しているということです。
戦争法案が成立すれば、米国は、アフガンのRS任務への自衛隊の参加を求めてくる可能性があります。その時に拒否できるか。できるはずがありません。ここに、憲法9条を踏みにじって自衛隊を「殺し、殺される」戦闘に参加させる、もう一つの深刻な現実的危険があることを、私は、強く告発したいのであります。(拍手)
集団的自衛権行使――「合憲性」の「根拠」はことごとく崩れた
憲法学者の批判への侮蔑と愚弄――政権与党の知的退廃と傲慢を示す
第三は、戦後半世紀にわたる政府の憲法解釈を百八十度大転換して、日本がどこからも攻撃されていないのに、集団的自衛権を発動して、アメリカとともに海外での武力行使に乗り出すという問題です。
6月4日、衆議院憲法審査会に参考人として招かれた3人の憲法学者が、そろって「安保関連法案は憲法違反」との意見をのべました。その衝撃はきわめて大きなものがありました。菅(義偉)官房長官は、悔し紛れに、「合憲という著名な憲法学者もたくさんいる」とのべました。「たくさん」というが名前をあげよと質されて、3人しか名前をあげることができませんでした(笑い)。揚げ句の果てに「数じゃないと思いますよ」と開き直りました。(笑い)
自民党の高村(正彦)副総裁は、「憲法学者はどうしても憲法9条2項の字面に拘泥(こうでい)する」と専門家を愚弄(ぐろう)する発言を行いました。これに対して、慶応大学の小林節名誉教授は、「憲法学者が法律の『字面に拘泥』するのは当然です。言葉にこだわる学者を煩わしいと思うなら、それは政治家の慢心。……『字面』をないがしろにすれば、その先にあるのは独裁政治です」ときっぱり反論しました。そのとおりだと思います。(拍手)
ある与党の議員は、参考人として発言した憲法学者に対して「安全保障の素人」だという非難を行いました。早稲田大学の長谷部恭男教授は、「今の与党の政治家の方々は、参考人が自分にとって都合の良いことを言ったときには専門家であるとし(笑い)、都合の悪いことを言ったときは素人だという侮蔑の言葉を投げつける」と痛烈に批判しました。
憲法学者に対して投げつけられた侮蔑と愚弄の言葉は、政権与党の深刻な知的退廃と傲慢(ごうまん)を示しているのではないでしょうか。(拍手)
「砂川判決」「72年見解」――政府の主張はこじつけの極み
批判と怒りの広がりに、政府はあわてて、6月9日、「新3要件と従前の憲法解釈との論理的整合性等について」と題する文書を発表しました。この「政府文書」で言われていることは、特段に新しいところはない、これまでの繰り返しですが、つまるところ次の2点でした。
一つは、1959年の砂川事件最高裁判決が、集団的自衛権行使の「合憲性」の「根拠」となるとしていることです。
いま一つは、1972年に参議院決算委員会に提出された政府見解「集団的自衛権と憲法との関係」が示した「基本的な論理」は変更しておらず、「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性および法的安定性は保たれている」としていることです。
この「政府文書」に対して、国会論戦でも、憲法学者からも、歴代元内閣法制局長官からも徹底的な批判の集中砲火が浴びせられました。
まず、1959年の砂川事件最高裁判決は、憲法9条のもとで米軍駐留が認められるかどうかを争ったものであり、日本の集団的自衛権などまったく争点になっていません。わが党議員の追及に対して、安倍首相に魂を売り渡した横畠(裕介)・現内閣法制局長官も、判決文は「集団的自衛権について触れているわけではない」としぶしぶ認めました。さらに横畠長官は、「政府文書」が引用している部分について「傍論」――「傍らの論」、すなわち判決を導き出す論理とは直接関係がないことも認めざるをえませんでした。これを集団的自衛権の根拠にするなど「暴論」――「乱暴」の「暴」の方の議論といわなければなりません。(拍手)
また、1972年の政府見解は、当時の国会で、野党議員から、「なぜ憲法9条が集団的自衛権の行使を禁止しているのか、文書で明確にしていただきたい」と要求され、これに応えて国会に提出されたものであり、その全体が、なぜ集団的自衛権が許されないかの一つながりの論理を明らかにしたものです。
それは、宮崎礼壹(れいいち)元法制局長官が、衆院安保特別委員会の参考人質疑で、「(72年政府見解における)集団的自衛権違憲との結論は、その文章構成自体からも、論理の帰結として述べられているのであって、当時の状況のみに応じた、いわば臨時的な当てはめの結果などと解する余地は全くない」「(同見解から)集団的自衛権の限定的容認の余地を読み取ろうというのは、前後の圧倒的な経緯に明らかに反します」と断言しているとおりです。
最高裁判決にせよ、政府見解にせよ、それがどのような経緯で出されたのか、その全体の論理がどうなっているのかを無視して、自分に都合のよい勝手な解釈を引き出すというのは、牽強付会(けんきょうふかい)――こじつけの極みといわなければなりません。憲法学者のなかから、「こんなことを何と弁護士資格を持っている人たちが言っている。どうして司法試験を通ったのか」(爆笑)という痛烈な批判が出されているのも当然であります。このような詭弁がまかり通るならば、憲法への信頼、法的安定性、立憲主義は根底から損なわれることになることを、私は厳しく批判したいと思うのであります。(拍手)
「安全保障環境の根本的変容」――唯一の解釈変更の「理由」も破たん
政府が、憲法解釈を変更した唯一の理由としているのが、「安全保障環境が根本的に変容」したということです。そこで、わが党議員が質問しました。「他国に対する武力攻撃によって、政府の安保法案の言うような『存立危機事態』なるものに陥った国が、世界に一つでもありますか」。岸田(文雄)外務大臣は答弁不能になり、外務省あげて1週間も調べましたが、結局みつからない(笑い)。外務大臣は「実例をあげるのは難しい」と答弁しました。世界に一つもないことを認めたのであります。「安全保障環境」が「変わった」「変わった」というけれども、憲法解釈変更の理由――戦争法案の立法事実がないことが天下に明らかになったのであります。
政府が、集団的自衛権行使容認の「合憲性」の「根拠」としたものがことごとく崩壊した。すなわち集団的自衛権行使が「憲法違反」であることが明瞭になった。これが国会論戦の到達点だということを、私は強調したいと思います。
集団的自衛権行使が何をもたらすか――歴代の元法制局長官の警告
くわえて、ここで真剣に考えなければならないのは、一たび集団的自衛権を行使したら、そのあとに何がもたらされるのかという問題です。それが、日本の安全を守るどころか、新しい国際紛争に日本を巻き込むきっかけをつくってしまうことになるという批判が、歴代の元内閣法制局長官から共通して寄せられているのは重要であります。
大森政輔・元法制局長官は、法律専門誌『ジュリスト』の対談で次のように述べています。
「我が国が集団的自衛権の行使として、密接な関係がある国を守るために、武力攻撃をしている第三国に我が国の攻撃の矛先を向けることになると、その第三国は……、事実上の問題として、今度は我が国に対して攻撃の矛先を向けてくることは必定で、集団的自衛権の抑止力以上に、多国間の国際紛争に、我が国が巻き込まれる危険を覚悟しなければならない。バラ色の局面到来は、集団的自衛権の行使によっては到底期待できないのではなかろうかと思います」。
大森(元)法制局長官といえば、1999年の周辺事態法(ガイドライン法)の審議のさいに、私も国会で論戦した相手ですので、その方がこういうことをおっしゃっているのは、たいへんに感慨深く読みました。
それから、阪田雅裕・元法制局長官は、衆院安保特別委員会の参考人質疑で次のように発言しました。
「これ(集団的自衛権)を行使するということは、進んで戦争に参加するということでありますから、つまり、敵となる相手国に我が国領土を攻撃する大義名分を与えるということでもあるわけですね。ですから、私のような者の目から見れば、国民を守るというよりは、進んで国民を危険にさらすという結果しかもたらさない」。
集団的自衛権行使とは、日本に対して武力攻撃を行っていない国に対して、日本の側から武力の行使を行うということです。それは、相手国から見れば、日本による事実上の先制攻撃となります。それは、相手国に日本を攻撃する大義名分を与え、相手国が今度は日本に対して攻撃の矛先を向けてくることは必定となります。それは、阪田元法制局長官がのべたように、「国民を守るというよりは、進んで国民を危険にさらす結果しかもたらさない」ことは明らかではないでしょうか。
そもそも集団的自衛権とは、日本に対して武力攻撃を行っていない国との関係で、日本の側から国際的な武力紛争状態を新たにつくりだすものにほかなりません。これが、「国際紛争の解決の手段としての武力行使」を禁止し、いっさいの「戦力」保持を禁止した憲法9条に真っ向から反することはあまりにも明瞭ではないでしょうか。(拍手)
独裁政治への道を拒否しよう――憲法違反の戦争法案は撤回・廃案以外に道はない
「戦闘地域」での兵站、戦乱の続く地域での治安活動、そして集団的自衛権――戦争法案が、この三つの重大問題のどれをとっても、「海外で戦争する国」をつくる違憲立法であることは、いまや明らかであります。
憲法を無視した政治――立憲主義を否定し、法の支配を無視した政治の行き着く先は、独裁政治にほかなりません。みなさん、民主主義を破壊する独裁政治を断固として拒否しようではありませんか。(拍手)
そして、憲法違反の戦争法案の扱いはただ一つです。ただちに撤回、廃案にする以外にはない。そのことを強く求めていこうではありませんか。(大きな拍手)
「対米従属性」――異常なアメリカ追随勢力が戦争法案を手にする危険
次の問題点に進みたいと思います。
第二の角度は、「対米従属性」――戦争法案と推進勢力が、異常なアメリカ追随を特徴としているということです。
米国の無法な戦争への参戦――ここに集団的自衛権の最大の現実的危険が
「ホルムズ海峡」の機雷掃海――現実にはありえない話
集団的自衛権行使が憲法違反であることは、すでにお話ししてきた通りですが、それでは集団的自衛権行使の現実的な危険がどこにあるでしょうか。
安倍首相は、「ホルムズ海峡が機雷で封鎖されたら、集団的自衛権の発動要件である『存立危機事態』になることがありうる」といいます。しかし、これは現実にはありえない話なのです。わが党議員が明らかにした外務省内部文書には、「イラン原油輸出はホルムズ海峡経由で行われており、海峡『封鎖』はイラン自らの経済活動を封殺するものであり、ホルムズ海峡『封鎖』はイランにとっても重大な決断を要するもの」と明記されていました。外務省自身が、海峡封鎖はイランにとっても自殺行為となり、現実性に乏しいと分析しているのです。くわえてこの間、イランは欧米と核協議で最終合意し、「海峡封鎖」など、いよいよ現実性はなくなりました。
高村副総裁は、「ホルムズ海峡が封鎖されたら寒冷地で凍死者が出る。6カ月分の石油備蓄があるといっても大変なことになる」と、まことしやかに語りました。しかし、北海道の人たちは何とこたえたか。「半年たったら春が来る」(笑い、拍手)
だいたい、資源確保のために軍事力を発動するという発想そのものが危険きわまりないことではありませんか。かつて日本は、石油や鉄鉱石などの資源を求め、中国や東南アジアへの侵略戦争を進めました。対米戦争は、資源確保のための「自存自衛」が名目とされました。この過ちを繰り返してはなりません。(拍手)
そして、資源確保のために軍事力を発動することを、平気で事例としてあげること自体が、集団的自衛権行使が「限定的」でも何でもない、無限定、無制限のものであることを、自ら告白するものではありませんか。(拍手)
集団的自衛権の行使は、時の政権の裁量で、無限定にいくらでも広がる
そもそも政府は、集団的自衛権行使の「要件」(武力行使の「新3要件」の第1の「要件」)を、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」としています。
これをもって安倍首相や高村副総裁などは、「極めて厳格に限定されている」といいますが、果たしてそうでしょうか。
だいたい、この「要件」は、「国の存立が脅かされ」とか、「国民の幸福追求の権利が根底から覆され」などの、きわめて漠然とした規定が続いたあとに、「明白な危険」という言葉で終わっています。「危険」を『広辞苑』で引きますと、「危害の生ずるおそれがあること」と説明されています。つまり、「おそれ」という不確定で、無限定な概念が、「危険」という用語には本質的に含まれているのです。それにいくら「明白な」という言葉をつけてみても、不確定さ、無限定さに、いささかも変わりはありません。
こうして、この「要件」は、定義そのもののなかに、本質的な不確定性、無限定性が、刻み込まれているのであります。
「明白な危険」かどうかを判断するのは、時の政権の裁量にまかされており、無限定にいくらでも広がります。ここに、政府がいう「武力行使の新3要件」なるものの最大の問題点があるということを、私は強調したいと思うのであります。
ただの一度も米国の戦争に「ノー」と言ったことのない国
集団的自衛権行使の最大の現実的危険は、アメリカの無法な先制攻撃の戦争に、日本が参戦することにあります。
政府のいう集団的自衛権行使の「要件」は、まず冒頭に、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」とあります。ここでいう「他国に対する武力攻撃」がいかにして発生したか。ここから問題にしなければなりません。すなわち、「他国」が先制攻撃を行い、その結果として戦争状態が生まれたのか――この場合には「他国」は侵略国になります。それとも、「他国」に対する武力攻撃から戦争が開始されたのか――この場合には「他国」は犠牲国になります。私たちは、ここにこそまず追及すべき大問題があると考えて、国会論戦にとりくんできました。
私は、安倍首相に質しました。「米国が先制攻撃の戦争を行った場合でも、武力行使の新3要件を満たしていると判断すれば、集団的自衛権を発動するのですか」。
実は、この質問は、今年2月の代表質問でも同じことを聞いたわけでありますが、その時の首相の答弁は、「個別具体的に判断する」というだけで、発動の可能性を否定しないというものでした。
しかし、さすがにそれではまずいと考えたのか、戦争法案の質疑にさいしては、首相は答弁を変えてきました。「違法な武力行使をした国を、日本が支援することはありません」と、一見、「殊勝」に見える答弁を首相がしたのであります。(笑い)
しかし問題は、米国の違法な武力行使を、日本政府が「違法」と批判できるかということにあります。
米国は、先制攻撃戦略を一貫して国家の基本戦略においています。そして戦後、国連憲章と国際法を踏みにじって、ベトナム侵略戦争、イラク侵略戦争をはじめ、数多くの先制攻撃の戦争を実行してきました。そのうち、1983年のグレナダ侵略、1986年のリビア爆撃、1989年のパナマ侵略に対しては、国連総会が圧倒的多数で、アメリカを名指しで非難する決議を採択しています。
だいたい、考えてみてください。米国に対する武力攻撃から開始された戦争は、1941年12月の日本による真珠湾攻撃とそれに続く太平洋戦争以来、一度でもあるでしょうか。それ以来、74年間、一度もありません。2001年の9・11同時テロは、たしかに大規模な被害をもたらしましたが、国家による武力攻撃ではなく、テロリストによる犯罪行為でした。戦後、米国が実行した戦争の圧倒的多数は、米国による先制攻撃で開始された戦争なのです。
それでは、日本政府は米国の戦争にどういう態度をとってきたか。私は、安倍首相に聞きました。「日本が国連に加盟してから今日まで、日本政府が米国による武力行使に対して、国際法上違法な武力行使として反対したことが一度でもありますか」。首相は「一度もない」とはっきり答弁しました。ただの一度もアメリカの戦争を国際法違反として批判したことはないのです。すべて「賛成」「支持」「理解」との態度表明をしてきた。国連総会の3回の対米非難決議に対しても、日本政府は反対もしくは棄権をしてきました。
こんな異常な米国への無条件追随の国は、世界の主要国のなかでもほかにありません。このような国の政府が、「違法な武力行使を行っている国を支援することはない」といって、いったい誰が信用するでしょうか。
米国の派兵要求を拒否できるか――言われるままに集団的自衛権を発動する危険
イラク戦争当時、米国・パウエル国務長官の首席補佐官だったローレンス・ウィルカーソン氏は、昨年5月、テレビ朝日のインタビューで、「もし日本がイラク戦争当時に集団的自衛権の行使ができたら、米国は日本政府に参戦するよう要請したか」と問われて、次のように答えています。
「イエス(要請したと思う)。実際われわれは、政治的支援か、軍隊の派遣を求める戦略をまとめていました。もし(日本が)軍隊をどこにでも派遣できる準備が整っていたら、私は日本から部隊を二つ送ると、その戦略に書いたでしょう」。
日本が、集団的自衛権の行使ができたら、米国の軍事的支援のために日本に二つの部隊の参戦を要求しただろうと言明しているのです。
安倍首相は、「イラク戦争のような戦争に、武力行使を目的に自衛隊を派遣することは決してありません」と繰り返しています。私との質疑でも、そのことを何度も言いました。しかし、戦争法案に、そのような場合の派兵はできないと明記されているわけではありません。法案のどこを見ても、そんな戦争には派兵してはならないと書いてあるわけではない。政府は、集団的自衛権行使はあくまでも「限定的」なものだと言いますが、それが無限定にいくらでも広がることは、すでにお話ししたとおりであります。米国が、「大量破壊兵器の問題は、日本の存立を根底から脅かすものだ」として、自衛隊の派兵を迫った場合に、日本政府が断れるでしょうか。これまでは「集団的自衛権の行使はできません」として断ることもできたでしょう。しかし、戦争法案が通れば、断ることができなくなることは明白ではないでしょうか。(拍手)
米国が、イラク戦争のような先制攻撃の戦争に乗り出しても、違法な戦争と批判できず、言われるままに集団的自衛権を発動して、海外での武力行使に乗り出す。ここにこそ、集団的自衛権行使の最大の現実的な危険があるということを、私は、強く告発したいと思うのであります。(拍手)
米国の戦争を無条件支持、検証も、総括もしないこの異常
ベトナム戦争とイラク戦争――国会質疑で明らかになった日本政府の姿勢
米国の無法な戦争への参戦という問題を考えるさいに、第2次世界大戦後の世界で起こった二つの大きな戦争――1960年代から70年代にかけてのベトナム戦争、2003年から今日に至るイラク戦争に対して、日本政府がどのような検証、総括を行ったのかは、たいへんに重要な問題です。なぜなら、日本政府は、この二つの戦争に首までつかって深く関与しているからです。
私は、国会質疑で、ベトナム戦争では、米国がベトナムに本格的な軍事介入を進める決定的契機となった1964年8月のいわゆる「トンキン湾事件」、イラク戦争では、米英等が戦争を開始する最大の口実とした「大量破壊兵器」の問題について、日本政府がどういう歴史的検証を行っているかという点に焦点をあてて、政府の姿勢を質しました。「トンキン湾事件」と「大量破壊兵器」の問題は、どちらも、いまでは米国政府の捏造(ねつぞう)だったことが、誰も否定できない動かしがたい事実となっているからであります。
国会質疑を通じて明らかになったのは、次の諸点でした。
――「トンキン湾事件」についても、「大量破壊兵器」の問題についても、日本政府は、当初、米国政府の発表を無条件に支持する立場を表明しました。
――どちらの問題についても、日本政府は、捏造であることが判明した段階で、米国政府に何らの説明も求めず、今に至るも何らの検証もしていません。
――どちらの問題についても、日本政府は、現在になっても、当初、米国政府の発表を無条件に支持したことを誤りだったと認めず、何らの反省もしていません。
私は、それらを明らかにしたうえで、安倍首相を問い詰めました。
「アメリカが行う戦争は、いつでも、どこでも、常に正義だと信じて疑わない。米国政府の発表は、いつでも、どこでも、事実だと信じて疑わない。捏造と分かっても説明も求めず、反省もしない。これが日本政府の基本姿勢ですか。こんなことでいいのですか」。
米国政府と比較しても、検証も、反省もしない日本政府の不誠実な姿勢はきわだつ
安倍首相は答弁に窮しましたが、私は、この問題を歴史的に追跡して痛感したことが二つあります。
一つは、米国と比較しても、検証をいっさいせず、過去にふたをする日本政府の姿勢はきわだっているということです。
たとえば、「トンキン湾事件」について、米国では、歴史的検証の作業が長期にわたって行われてきました。当時の国防長官、マクナマラ氏は、真相究明のために1995年にベトナムのハノイにまで行って、ベトナム軍の将軍たちとの対話で、捏造だったという事実を確認しています。アメリカのNSA(国家安全保障局)は、2005年、「トンキン湾」事件についてのNSAの分析官の論文を発表しています。この論文を読みますと、当時の米軍の電子情報――ベトナム側の通信を傍受した122本もの膨大な電子情報を全面的に分析して、米国政府の発表は捏造だったという証明を行っています。
私は、これらに接して、米国政府当局者の歴史的事実に対するある種の真剣さを感じました。そして、日本政府が同じ立場に立たされた場合に、40年も前の電子情報を真剣に分析するということをするだろうかということを考えました。日本政府だったら、そのような電子情報は、闇から闇に葬られ、廃棄されるのが落ちではないでしょうか。米国政府の姿勢と比較しても、いっさいの検証も、反省もしない、日本政府の歴史に対する不誠実な姿勢は、きわだっているのではないでしょうか。
一方的に情報を伝達され、無条件に支持し、説明を求めることすらできない関係
いま一つは、それにしても、捏造と判明した段階で、日本政府が米国政府に説明すら求めなかったのはどういうわけかということです。
これについては、イラク戦争の当時、首相官邸で、安全保障・危機管理担当の官房副長官補を務めた柳沢協二氏が、その著書『検証 官邸のイラク戦争――元防衛官僚による批判と自省』のなかで、「大量破壊兵器」問題についてアメリカに説明を求めなかった理由について、つぎのように証言しています。
「(説明を求めれば)将来にわたって、アメリカの情報について検証と説明を求める前例となるばかりか、核の持ち込みなど、過去の問題についても、アメリカの説明に関する検証が必要になることも考えられる。アメリカへの検証・説明要求は、『パンドラの箱』を開けることになりかねなかった」。
一たび説明を求めれば、将来にわたって、説明を求めなければならなくなる。過去の問題についても、説明を求めなければならなくなる。だから捏造と分かっても説明を求めるわけにはいかないのです。
一方的に情報を伝達され、それを無条件に支持するだけ、説明を求めることすらできない関係を、まともな主権国の間の関係と呼べるでしょうか。
こういう究極のアメリカ従属の政府が、集団的自衛権を発動し、アメリカとともに海外での戦争に踏み出すことがいかに危険かは、明らかではないでしょうか(拍手)。絶対に許すなの声を、突きつけようではありませんか。(大きな拍手)
「歴史逆行性」――過去の日本の戦争を反省しない勢力が戦争法案を推進する危険
次の問題点に進みたいと思います。
第三の角度は、「歴史逆行性」――過去の日本の戦争を「間違った戦争」と言えない安倍政権が、戦争法案を推進する危険という問題です。
党首討論――過去の日本の戦争を「間違った戦争」とかたくなに認めず
今年は、戦後70年の節目の年です。まもなく8月15日がやってまいります。日本が過去の戦争にどういう基本姿勢で向き合うかは、たいへんに重要な問題となっています。
私は、5月20日の党首討論で、安倍首相に対して、1945年8月14日に日本が受諾通告をした「ポツダム宣言」を引用して、「過去の日本の戦争は『間違った戦争』との認識はありますか」と質しました。
党首討論では、うんと平たい言葉で「間違った戦争」と認めるかという一点で聞きました。「侵略」と認めるかと聞きますと、首相は「侵略の定義は学問的に確立していない」などと、こういう時だけ「学問」を持ち出して逃げるに決まっているので(笑い)、うんと平たく「間違った戦争」か否かの一点で質しました。
安倍首相は、最後まで「間違った戦争」と認めることをかたくなに拒み続けました。さらに、首相が、「(ポツダム宣言を)まだつまびらかに読んでいない」と答弁したことが、内外に衝撃を与えました。この答弁は、私にとっても想定を超えた(笑い)、驚きの答弁でありました。
この党首討論の後、ある野党議員が「ほんとうに読んでいないのか」という質問主意書を出しました(笑い)。それに答えて、安倍政権は、「首相は、ポツダム宣言については、当然、読んでいる」とする答弁書を「閣議決定」しました(笑い)。「読んでいる」ことを「閣議決定」するというのはおかしな話ですが、ほんとうに「読んでいる」のならば、あのときの答弁はいったい何だったのか。口が裂けても「間違った戦争」と言いたくないがための、その場逃れの発言だったということになるではありませんか。(拍手)
安倍首相の「ポツダム宣言」に対する本音の認識――二つの大きな問題点
「原爆を二発も落としたあと、『どうだ』とばかり叩きつけたもの」
安倍首相の「ポツダム宣言」に対する本音の認識とはどういうものでしょうか。
安倍晋三氏は、首相になる前、自民党幹事長代理だった時期に、2005年7月の雑誌『Voice』の対談で、当時、「ポツダム宣言」を引用して小泉(純一郎)首相の靖国神社参拝を批判した野党議員を批判して、次のようにのべていました。
「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えたあと、『どうだ』とばかり叩(たた)きつけたものです。そんなものをもちだし、あたかも自分自身が戦勝国であるかのような態度で、日本の総理を責めあげる。大変な違和感を覚えました」「ポツダム宣言をもって総理を追及する姿は勝者にこびる道化師のようであり、滑稽(こっけい)でしたね」。
こんな文書は“破り捨てたい”という本心が
私は、この発言には、二つの大きな問題点があらわれていると思います。
第一は、安倍晋三氏にとって、「ポツダム宣言」とは、「戦勝国」によって力ずくで「叩きつけられた」文書であって、いやしくも日本の政治家ならば「そんなものをもちだして」議論すべきではない、こんな文書は“破り捨てたい”という本心がここにあらわれているではありませんか。
いうまでもなく、「ポツダム宣言」は、軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容としたもので、日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にあることを示した、戦後日本の原点中の原点となった文書です。その文書を否定するかのごときこの発言は、安倍晋三氏が、日本の政治家としての適格性を根本的に持ち合わせていない人物であることを示すものではないでしょうか。(拍手)
重大な歴史的事実の誤認――「戦後レジームからの脱却」を言いながら
第二に、この発言には、重大な歴史的事実の誤認があるということです。
「ポツダム宣言」が発せられたのは1945年7月26日、広島・長崎への原爆投下は8月6日と9日、日本が受諾通告をしたのは8月14日です。安倍晋三氏のいうように「ポツダム宣言」は、「原子爆弾を二発落としたあとに叩きつけた」ものではないのです。それが発せられたのは原爆投下の「後」ではなく「前」のことなのです。
憲法学者の樋口陽一東京大学名誉教授は、戦争法案に反対する国会前の抗議行動でのスピーチで、安倍氏のこの発言について、つぎのように痛烈に批判しました。
「ポツダム宣言が発せられてから原爆投下まで11日間、いたずらに過ごしたがために日本は、アメリカに世界が始まって以来の非人道的な武器を使う不当な弁明のチャンスを与えた。ポツダム宣言と広島、長崎、どっちが先か、どっちが後かということも知らないで、戦後(レジーム)からの脱却をはかる(という)。これじゃまずいんじゃないか」。
「戦後レジームからの脱却」を唱えながら、戦後日本の原点となる文書についてのまともな歴史的事実も知らない。私も、「これじゃまずい」ときっぱり言いたいと思います。(拍手)
こういう首相と内閣に、戦争法案を扱う資格はない
戦後の国際秩序というのは、日独伊3国による戦争は侵略戦争だったという判定の上に成り立っています。ところが安倍首相は、「侵略戦争」はおろか、「間違った戦争」とも認めない。そればかりか、戦後日本の原点となった「ポツダム宣言」を内心では憎悪し、この「宣言」をめぐる歴史的事実の基本すら知らない。
およそこういう首相、こういう内閣に、日本を「海外で戦争する国」につくりかえる戦争法案を扱う資格はありません(大きな拍手)。私は、みなさんとともに、法案の撤回、廃案を重ねて強く求めるものであります。(拍手)
戦後の歴史をどうとらえ、地域の平和をどう築くか――戦争法案「合理化」論に反論する
戦後70年の歴史をどうとらえるか
国会論戦と国民のたたかいに追い詰められた安倍政権は、戦争法案を押し付けるために、苦し紛れの「合理化」論を言い立てています。
それは、大きく言って二つあります。
一つは、戦後70年の日本の歴史をどうとらえるかにかかわってであります。
安倍首相は言います。「安保条約を改定したときに、戦争に巻き込まれるといった批判が噴出しました。しかし、そうした批判が全く的外れなものであったことは、これまでの歴史が証明しています」。
自民党高村副総裁もこう言います。「憲法学者の言うとおりにしていたら、今も自衛隊はありません。日米安全保障条約もありません。……自衛隊や日米安全保障条約が抑止力として働いて、平和と安全を維持してきたのであります」。
日本が70年間、他国と戦火を交えることはなかったのは、何の力によるものか
私は、ここには重大な歴史の歪曲(わいきょく)があると思います。
第一に、日本は、この70年間、他国と直接の戦火を交えることはありませんでした。自衛隊は、半世紀余にわたって、一人の外国人も殺さず、一人の戦死者も出しておりません。これは何の力によるものでしょうか。もっぱら日米安保条約と自衛隊の力によるものでしょうか。それははなはだしい歴史の歪曲ではないでしょうか。
日本国憲法第9条が存在し、多くの憲法学者や国民が、自衛隊は憲法違反だとの当然の常識をとなえてきました。憲法9条を守り、生かし、平和を希求する国民の世論と運動が脈々と続いてきました。その力が、歴代政府をも縛り、「自衛隊は軍隊ではない」「海外での武力行使は許されない」「集団的自衛権行使は許されない」という憲法解釈をとらせてきました。そうしたもろもろの力が相まって、70年間の日本の平和を守ってきたのではないでしょうか(拍手)。この平和の歴史を断ち切り、「殺し、殺される」日本への逆行を、絶対に許してはならない。このことを訴えたいと思います。(拍手)
「『安保条約によって戦争に巻き込まれる』という批判は的外れだった」というが本当か
第二に、安倍首相は、安保条約によって「戦争に巻き込まれる」といった批判は「全く的外れ」だったことは「歴史が証明した」と言いますが、ほんとうでしょうか。私は、言いたい。安倍首相には、日米安保条約のもとで、日本が米国の戦争に「巻き込まれてきた」、その歴史の事実が目に入らないのか。
ベトナム戦争で、日本は文字通りの最前線基地とされました。沖縄・嘉手納基地からB52戦略爆撃機が連日のようにベトナムに向かい、爆弾の雨を降らせました。東京・横田基地から米軍戦車がC5Aギャラクシー輸送機に積み込まれ、ベトナムに運ばれました。横須賀港、佐世保港から、空母を中心とする第7艦隊がベトナムに向かい、激しい艦砲射撃を加えるとともに、空母発進の戦闘機がベトナムを攻撃しました。当時の椎名(悦三郎)外務大臣は、国会答弁で、「ベトナム戦争がもう少し近いところでおこなわれていたら、……(日本が報復)攻撃を受けることはありうる」と語りましたが、この戦争は、日本をそうした立場に立たせたのであります。
アフガニスタン戦争では、インド洋に派遣された海上自衛隊の補給艦からの給油を受けた米艦船から飛び立った軍用機が、アフガンへの攻撃を行い、多くの民衆を殺害しました。イラク戦争では、航空自衛隊が空輸した武装米兵がイラク各地での掃討作戦に投入されました。ファルージャでの掃討作戦ではたくさんの民衆が殺されました。
日米安保条約によって、日本が、米国の無法な戦争の根拠地とされ、戦争に協力・参加させられ、他国の民衆の殺害に加担させられてきた歴史を、私たちは決して忘れてはなりません(拍手)。そしてこれらの戦争で、とりわけ沖縄が、戦時さながらの深刻な被害をこうむり、事故や犯罪など耐え難い苦しみのもとに置かれたことを、私たちは決して忘れてはならないのではないでしょうか。(拍手)
いま、日米新ガイドライン(軍事協力の指針)と戦争法案によって、日米安保体制は、条約の枠組みすらはるかに超える、地球的規模での戦争同盟へと変貌(へんぼう)しようとしています。ここにこそ日本を戦争に引き込む最悪の元凶があります。みなさん、ここを大きく切り替えようではありませんか。国民多数の合意によって日米安保条約を廃棄し、独立・民主・平和の新しい日本をご一緒につくろうではありませんか。(大きな拍手)
日本と地域の平和と安定をどうやって築くか
いま一つは、日本と地域の平和と安定をどうやって築くかにかかわる問題であります。
安倍首相は言います。「日本を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増しています。北朝鮮の弾道ミサイルは、日本の大半を射程に入れています。……同盟関係がしっかりとしているということは、抑止力につながっていくことになります」。
高村副総裁は次のように語りました。「日米同盟強化しないでどうやって日本の平和と安全維持できるんですか。北朝鮮ははっきりした脅威ですよ。それを止めるのは、抑止力以外にないんですよ。話せばわかる国じゃないんですよ。あの国は」。
どんな問題も外交的解決に徹する、平和の外交戦略の確立こそ
私たちの住む北東アジアには、北朝鮮の核兵器問題、領土にかかわる紛争問題、歴史問題をめぐる対立と相互不信など、さまざまな紛争と緊張の火種が存在します。しかし、そうした問題に対して、「抑止力強化」の名で、もっぱら軍事で構えたらどうなるでしょうか。相手も軍事力の増強を加速することになります。そうした“軍事対軍事”の悪循環に陥ることが最も危険なことではないでしょうか。
高村氏のように、北朝鮮を「話せばわかる国じゃない」と言い捨てるのは簡単です。しかし、それでは戦争をするというのでしょうか。そんなことはできないし、決してやってはなりません。北朝鮮の問題も、困難はあっても、「6カ国協議」の枠組みに立ち返る外交努力を、関係諸国と連携して強めることこそが、唯一の解決の道ではないでしょうか。どんな問題も外交的解決に徹する、そのために憲法9条の精神に立った平和の外交戦略を確立することこそ、いま日本に求められていることではないでしょうか。(拍手)
「北東アジア平和協力構想」――日本国憲法第9条の旗を高く掲げて
私たちは、その大きなヒントが東南アジアの国ぐに――ASEAN(東南アジア諸国連合)が実践している地域の平和協力の取り組みにあると考えています。
ASEANは、TAC(東南アジア友好協力条約)を締結し、この条約を土台にして「紛争を戦争にしない」――あらゆる紛争問題を話し合いで解決する重層的な平和と安全保障の枠組みをつくりあげています。中国との関係でも、いろいろと難しい問題はありますが、領土紛争をエスカレートさせない南シナ海行動宣言(DOC)を締結し、それを法的拘束力をもった行動規範(COC)に前進させるための粘り強い努力を重ねています。
ASEANが現に実践している地域の平和協力の枠組みを、北東アジアにも構築しよう。こうした立場から、日本共産党は「北東アジア平和協力構想」を提唱し、その実現のために関係各国との対話を続けてきました。
北東アジア規模の「友好協力条約」を締結する、北朝鮮問題を「6カ国協議」の枠組みで解決する、領土にかかわる紛争問題をエスカレートさせない行動規範を結ぶ、日本の侵略戦争と植民地支配の反省は不可欠の土台になる――これが私たちの提唱する「北東アジア平和協力構想」の中身であります。
私たちは、この「構想」こそ、安倍政権の戦争法案に対する真の平和的対案であると確信するものであります。(拍手)
韓国の翰林(かんりん)聖心大学教授をつとめ、日本で『韓国の軍隊』という著書がある尹載善(ユン・ジェソン)氏は、私たちに、次のようなメッセージを寄せてくれました。
「あなたたちの北東アジア平和協力構想に賛成です。日本政府は、戦争法を進めるうえで、北朝鮮は危ないといいますが、日本が軍拡をすれば、北朝鮮だって軍拡をしようとします。軍事競争がエスカレートすれば、結果的に軍事衝突になることもあります。日本は、平和憲法があってこそ、70年間攻撃されてきませんでした。平和憲法はそれだけの大きな力があります。日本が平和憲法を守ったとき、6カ国協議で北朝鮮を説得することができます。日本は自信を持ってほしい。北東アジアの平和を守るために、軍事競争ではなく、平和憲法を守り、世界に広げるくらいの気持ちで、北東アジアの平和のリーダーになってほしい」。
こういうメッセージが寄せられたことをご報告しておきたいと思います。(拍手)
みなさん、私たちが世界に誇る宝――日本国憲法第9条の旗を高く掲げて、アジアと世界の平和を築くために、知恵と力をつくそうではありませんか。(拍手)
歴史の進歩に大局的確信を持って――国民のみなさんに訴えます
会場のみなさん。全国のみなさん。
戦争法案の帰すうを、予断をもって言うことはできません。私たちのこれからのたたかいにかかっています。「戦前のように戦争への道を歩むのではないか」。多くの人々が不安を募らせているのも事実です。その危険を直視しつつ、私たちは、党創立記念講演会にあたって、日本共産党の93年の歴史に思いをはせ、歴史の進歩への大局的な確信をもつことが大切だと思います。
主権者としての権利を行使し、ともに手を携え、戦争への道を断固として拒否しよう
戦前の日本は、国民は主権者でなく、天皇が国の全権を握る専制国家でした。戦争をやるかどうかを決めるのも天皇の権限で、国民は一切の口出しができないどころか、平和を唱えただけで弾圧され牢(ろう)につながれました。
そうした社会にあって、日本共産党の私たちの先輩たちは、天皇制の専制政治を倒し、国民主権の日本を築くことを、命がけで主張してたたかいぬきました(拍手)。多くの先輩たちが弾圧され、命を落としましたが、私たちが掲げた国民主権の旗は、戦後、日本国憲法のなかに、しっかりと刻み込まれました。(拍手)
私たちは今、戦争法案とのたたかいのなかで、憲法に刻まれた国民主権の原則が、戦後の70年間に、国民のなかにしっかりと根を下ろし、国民のたたかいのなかで豊かに発展し、大きな力を発揮していることを実感しています。
若い世代が、「先人によって70年間守られてきた憲法を未来に引き継ぎたい」「今行動しなければ後悔する。本当に止める」と空前の規模で立ち上がっていることは、素晴らしいことではありませんか。(拍手)
女性たちが、「ママはあの時に頑張って戦争を止めたと、子どもたちに言えるようになりたい」と、手を携え、立ち上がっています。
年配の世代の方々が、「かつて体験した戦争を繰り返してはならない」と、若い世代と肩を組み、立ち上がっています。
多くの学者・研究者・法曹界・文化人の方々が、知識人としての責任と誇りにかけて、また一人の国民・市民として声をあげ、行動しています。
いま、日本列島を揺るがして、日々広がっている国民のたたかいは、その広さという点でも、深さという点でも、自覚的・創意的なエネルギーの発揮という点でも、戦後日本の国民運動の歴史のなかでも、かつてない空前のたたかいとなっているといってもいいのではないでしょうか。(拍手)
それは、戦後70年を経てつくりだされた日本国民の平和と民主主義を希求するエネルギーが、いかに巨大なものかを示しているではありませんか。(拍手)
みなさん、このエネルギーに自信をもち、主権者としての権利を行使して、ともに手を携え、戦争への道を断固として阻止しようではありませんか。(「そうだ」の声、大きな拍手)
平和と民主主義とこの国の未来のために、日本共産党を強く大きく
そして、私は、党創立記念講演会にあたって訴えたいと思います。平和と民主主義とこの国の未来のために、どうか日本共産党を強く大きくしていただきたい。
私たちは、一昨年の参議院選挙、昨年の総選挙、今年のいっせい地方選挙と、連続的な躍進をかちとらせていただきました。
私たちは、躍進した力の大きさを、戦争法案とのたたかいのなかでも実感しています。衆院安保特別委員会で、1日約1時間という時間をとって質問ができるようになったのも、躍進をさせていただいたたまものであります(拍手)。ベテラン議員とともに新人議員のみなさんが質問戦に立ち、しばしば外務大臣や防衛大臣を答弁不能、立ち往生に追い込んでいることも、うれしいことであります(拍手)。11年ぶりに党首討論に立てるようになりました。「7分は短いですね」とよく言われますが、11年間は「ゼロ分」でありました。ここで発言できるようになったのも、みなさんのご支援のたまものであります。心からお礼を申し上げたいと思います。(拍手)
戦争法案とのたたかい、沖縄のたたかい、原発のたたかい、あらゆる分野のたたかいで、思想・信条の違いを超え、国民の願いにそくした一致点にもとづく共闘――「一点共闘」を発展させ、時には縁の下の力持ちになって頑張りぬく。これが日本共産党の立場であります。どうかこの党を強く大きくしていただきたい。
日本共産党に入党し、平和と民主主義を守り、日本の希望ある未来を開くために、ともに歩むことを心から呼びかけたいと思います。(拍手)
戦後最悪の安倍政権を、みんなの力で打ち倒そう
会場のみなさん。全国のみなさん。
憲法違反の戦争法案を、必ず葬り去ろうではありませんか。(大きな拍手)
戦後最悪の安倍政権を、みんなの力で打ち倒そうではありませんか。(「そうだ」の声、大きな拍手)
日本共産党創立93周年万歳!(「万歳」の声、大きな拍手)
ありがとうございました。頑張りましょう。(「頑張ろう」の声、大きな拍手)