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2018年1月16日(火)

「赤旗」創刊90周年 シリーズ 戦争とどう向き合ってきたか

歴史の分岐点 「満州事変」報道にくっきり

命かけ反戦・平和貫いた「赤旗」 軍の謀略に加担、戦争あおった商業紙

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 1928年に創刊された「しんぶん赤旗」は2月1日、90周年を迎えます。誕生以来、侵略戦争と植民地支配に反対し一貫して反戦・平和の立場を貫いてきた姿勢は、「赤旗」のゆるぎない伝統として輝いています。反戦・平和をかかげて90年、「赤旗」は戦争とどう向き合ってきたか。シリーズで紹介します。


 戦前、「赤旗(せっき)」は、日本が侵略戦争への道をひたすら進むなか、激しい弾圧のもとでも命がけで反戦・平和の論陣を貫きました。日本のアジア・太平洋戦争の開始となる1931年9月18日の「満州事変」は、軍部の発表通りに戦争遂行をあおった商業新聞と、戦争の真実を伝え戦争反対を訴えた「赤旗」の姿を鮮やかに浮き彫りにするものでした。(村上 宏)

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(写真)「満州事変」を伝える(右から)「東京朝日」と「東京日日」(ともに1931年9月19日付)。その2カ月も前に侵略戦争反対を訴えた「赤旗」(同7月6日付)

 「満州事変」は中国・奉天郊外の柳条湖で、日本の軍部・関東軍がみずから南満州鉄道の線路を爆破して、それを中国軍の仕業として戦火を開いたもので、謀略により始まりました。

 「奉軍満鉄線を爆破 日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」(「東京朝日」)

 「支那軍満鉄線を爆破 わが守備隊を襲撃す」(「東京日日」=今の「毎日」)

 9月19日付の商業新聞はこぞって軍部の謀略と虚偽の発表をそのまま報道し、侵略戦争の旗振り役となりました。

 関東軍の謀略に手を貸した商業新聞は、その後も、「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はない」(「朝日」10月1日付社説)と軍部の行動を支持。「東日」は「強硬あるのみ―対支折衝の基調」(10月1日付)など、侵略戦争をあおる社説を連打し、「守れ満蒙=帝国の生命線」という見開き特集も組み、「満蒙におけるわが特殊権益は…わが民族の血と汗の結晶」とまであおりました。これには「毎日新聞後援 関東軍主催 満州事変」という言葉も生まれたといいます。

 この時期、商業新聞は、戦争の開始を部数拡張の機会ととらえ、戦争遂行の論陣を張るとともに、多くの記者を戦地に送り、号外を日に3、4回も発行するなど、戦争キャンペーンを繰り広げ、国民を戦争に駆り立てていきました。

 戦争が始まった31年に144万部だった「朝日」の発行部数は、32年には182万部に。『朝日新聞70年小史』は「新聞は非常時によって飛躍する」と当時を振り返り、「経理面の黄金時代」だったと述懐しています。

 「朝日」「毎日」に水をあけられていた「読売」も「戦争は新聞の販売上絶好の機会」(正力松太郎社長)と夕刊発行に踏み切りました。

戦争開始の危険 2カ月前に警告

 これに対し「赤旗」は、「満州事変」の起きる2カ月も前から「日本帝国主義の戦争準備と斗へ(たたかえ)」(31年7月6日付)として、「一銭の軍費も出すな」「一人の兵士も送るな」と訴えて、日本軍が満州で侵略戦争に乗り出そうとしていることを暴露し、警告を発しました。

 「満州事変」が起こると、「ブルジョア新聞、雑誌は口を揃(そろ)へて、今度の戦争の『原因』を支那兵の『横暴』『日本を馬鹿にした態度』等々に見出してゐる。そして満鉄の一部の破壊を以て『事変の原因』と決めてゐる。然しながらそれは全然嘘偽(ママ)である。真の原因は日本帝国主義者が当面してゐる危機を切抜ける為に新しい領土略奪の為の戦争を準備してゐたところにある」(31年10月5日付)と、商業新聞の姿勢を批判し侵略戦争の本質をズバリ指摘して国民に知らせました。

 同20日付の「帝国主義戦争を打倒せ!」では、「満鉄爆破事件は参謀本部が計画的に行った事」という外務省下級官吏の言葉を紹介。「『満州事変』が盗賊的侵略的帝国主義戦争であることに一点の疑もさしはさむことは出来ない」と指摘しました。

「満州国」支持で132社「共同宣言」

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(写真)「大阪朝日」(1932年12月19日付)1面に載った「満州国」を支持する新聞・通信社132社の「共同宣言」

 商業新聞は侵略戦争推進の論陣を張っただけでなく、戦争が拡大するにつれてあらゆる面で積極的に加担していきます。

 テレビのなかった時代、戦地へ派遣した記者による講演会やニュース映画の上映会をたびたび開き、「勇ましい皇軍の活躍」などを宣伝しました。

 さらに、「朝日」は31年10月16日、「満州」の日本軍に慰問袋を送るキャンペーンを開始。1万円を出して2万個送るとし、慰問金を募集、金を寄せた人の名前を連日、紙面で紹介しました。これはのちに軍用機の「献納運動」へとつながっていきます。

 32年2月、日本軍の兵士3人が爆弾をかかえて敵陣に突っ込み爆死した事件を、商業新聞は「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」として英雄化し「壮烈無比の爆死」(「大阪朝日」)、「忠烈まさに粉骨砕身」(「大阪毎日」)などと軍国美談に仕立て上げました。さらに弔慰金贈呈や「三勇士の歌」の懸賞金付き募集なども競い合いました。

 このように軍部による強制にとどまらず、より積極的・自覚的に侵略戦争を肯定しそれを推し進める側にたったのが商業新聞でした。そのゆきついた先が32年12月19日の新聞・通信社132社の「共同宣言」です。

 「宣言」は「満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である」「満州国の独立とその健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である」と強調。3月1日の「満州国」の建国を国際連盟が承認しないという動きに対して「断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いてこゝに明確に声明するものである」と述べました。

 ジャーナリズムの役割をまったく投げ捨て、自ら国策メディア化を示したに等しい「宣言」です。

日本軍虐殺など「満州通信」で伝える

 商業新聞の戦争キャンペーンに対し「赤旗」は、「日本帝国主義の満州強奪の駆引 『満州国承認』に反対せよ!」(32年9月15日付)、「『満州国』承認に反対せよ! 中国の完全なる独立のために!」(同9月20日付)と連打しました。

 現地の様子も、商業新聞が“戦果”をとくとくと報道するなか、「赤旗」は特別通信員による「満州通信」(32年6月)を掲載し「ロボット」という言葉を使って「満州国政府は日本の思うまゝに操縦されてゐる」と本質を突き、憲兵による捕虜の虐殺や暴行を「高粱(こうりゃん)に火をつけたのを民家に投げ込ませその町全体を焼き拂(はら)つてしまつた」などと生々しいルポで伝えています。

 日本共産党に対する過酷な弾圧が日増しに強まるもとでも、「赤旗」は35年2月20日付(第187号)で発行不能に陥るまで、侵略戦争反対の論陣を堂々と掲げ、国民に立ち上がるよう呼びかけました。全国の工場や職場、学園、農村から兵営や軍艦の中まで、各地で勇敢にたたかう国民の姿を報道し続けました。

 弾圧に抗して戦争反対を貫いた日本共産党や「赤旗」の存在は、「反戦によって日本人の名誉を救った」(評論家の加藤周一氏)、「暗い道の行く手を照らすともしび」(俳優の米倉斉加年氏)と高く評価されました。

 戦前、「赤旗」が掲げた真実の追求と反戦・平和の主張は、今日に生き続けます。

 戦後日本の出発点となったポツダム宣言は、軍国主義の一掃と平和的・民主的な日本の建設を求めました。

 これらは日本共産党と「赤旗」が命がけで追求してきたものと合致します。そしてその精神は、戦争を永久に放棄し戦力を保持しないとした日本国憲法として結実していきました。

[90周年関連年表(戦前)]

 1928年

  2月1日 「赤旗(せっき)」創刊(謄写版刷り、月2回刊)

 1931年

  7月6日 「赤旗」、「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」とよびかけ

  9月18日 「満州事変」。アジア・太平洋戦争始まる

 1932年

  3月1日 「満州国」、建国宣言

  4月8日 「赤旗」活版印刷を実現

  5月15日 五・一五事件、犬養毅首相暗殺

  12月19日 新聞・通信社132社、「満州国」支持の「共同宣言」

 1933年

  2月20日 小林多喜二虐殺される

 1935年

  2月20日 「赤旗」、187号を最後に停刊

 1941年

  12月8日 日本、米英などに宣戦布告

 1945年

  8月15日 日本、ポツダム宣言を受諾。連合国に降伏

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弾圧に屈せず不死鳥のごとく

中央大学名誉教授(マスコミ論) 塚本三夫さん

 1920年代には、労働運動や農民運動、文化運動などがほうはいとして起こり、急速に発展しました。日本共産党が創立され、いろんな労農団体もできました。その大きな流れの中で「赤旗」は中心的な先導的役割を果たしたと思います。

 28年に創刊された「赤旗」は、短い期間で急速に部数を伸ばします。全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』もあっという間に2万部の発行になりました。当時としてはすごいことです。

 この広がりは、それらが先駆的だったことの証しでしょう。一方で、それを受容する民衆の活動の高揚感もあり、いろんな運動に支えられて広がったともいえると思います。だからこそ、権力もまず共産党と「赤旗」を弾圧したわけです。

 31年の「満州事変」は分岐点でした。商業新聞は32年の「共同宣言」で戦争になだれ込み“翼賛メディア”となります。「新聞はビジネス」とばかりに、部数を伸ばすために戦争報道に走り、引き返しのつかないところまで行ってしまいました。

 その点で、「赤旗」は何度も発行中断に追い込まれながら不死鳥のように復活しました。このドラマは今、再評価しなければならないと思います。


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