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2017年12月8日(金)

2017とくほう・特報

きょう太平洋戦争開戦76年

安倍9条改憲ノー 行動する人々

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 「地元でも平和を訴えて街頭に立つようになった」という60代の女性。若い世代に向けて戦争反対をネットで呼びかける研究者。侵略戦争を拡大したアジア・太平洋戦争開戦76年の8日を機に、安倍9条改憲ノー、戦争を繰り返させないために行動する人々の思いを取材しました。(武田恵子)


写真

(写真)2015年8月の戦争法反対国会前行動に参加した人々。右上は長木さんの俳句。左下は狐崎さんの五行歌

平和への願い 俳句に

 戦後から

 戦後へ続け

 去年今年(こぞことし)

 去年今年は新年の季語です。

 千葉県松戸市に住む長木(おさき)和代さん(68)が、自身のこの句を地域の句会で紹介したのは昨年1月。

 前年の2015年は安倍政権が戦争法=安保法制を強行成立させた年。和代さんは定年まで勤めた職場の同僚から誘われて、国会前デモに参加していました。俳句は「戦争はイヤだ。ずっと戦後でありますように」との思いからつくりました。

 和代さんは、1949年(昭和24年)生まれ。「父は、戦前、南方戦線に出征しましたが奇跡的に生還しました。戦後1947年に結婚し、私が生まれました」。出征は、アジア・太平洋戦争の開戦日にあたる1941年12月8日のころです。21年(大正10年)11月生まれの父親は20歳を迎えると陸軍に入隊し、門司港(福岡県)から出征しました。

名前に込めて

 “奇跡的に生還”というのは―。「部隊はほとんどが病死か戦死したそうです。父は、終戦前に病院船で帰ってきたそうです。父も右耳の付け根に弾痕が残っていました」と和代さん。15年前に80歳で生涯を終えた父親の「戦後、みんな平和になって良かった」という思いが「和代」という名前に込められています。

 「名前が和代。憲法9条を持つ国、戦争で原爆を投下された唯一の国に生まれ育った私は戦争のない世の中にするために活動することは宿命」と自らをアピールします。安倍9条改憲ノーの一斉行動が全国各地でとりくまれた11月19日。地域の駅頭の行動に参加した和代さん。横断幕を掲げる活動を担当しました。街頭宣伝に1時間参加するのは初めてです。

 10月の総選挙でも率先して家族や知人に支持を広げました。これも初めてのことです。地元の市民連合の集会にも参加し、野党共闘の候補者が決まるまでの積み重ねを実感することができました。比例に「共産党」と書くことや、書いてもらうことは「決意がいることですね」と話します。

ネットで若者に伝える

 「若いみなさんへ」と題する文書を「星屑(ほし・くず)」のペンネームでネットの自分のサイトに出しているのは狐崎(きつねざき)晶雄(あきお)さん(73)=東京都内在住=。2015年5月から始め、いまも更新中です。今年5月の安倍首相の改憲発言について五行歌で表現しました。

 自衛隊を憲法に書こう/すごいことを言い出した/どこまで考えて言っているのだろう/以前、国会で/自衛隊を「我が軍」と呼んだ首相(以下略)

 政府機関の研究所や大学で働いてきた電気工学の研究者です。数年前までは、政治に関わることを避けてきた、いわゆるノンポリでした。しかし、特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認に危機感を覚えました。「どうみても安倍政権は戦争をしたくてしょうがないとしか見えない」

 専門外の政治と戦争に関わる本を読み勉強するうちにいくつかの「驚き」があったという狐崎さん。その一つが、戦前の旧憲法と政治体制です。

 狐崎さんは1944年生まれ。「国民のための国」が基本的思想の憲法のもと、教育を受けてきました。今回、「若いみなさんへ」を書くにあたって、戦前の政治体制を初めて勉強しました。「旧憲法は、『天皇のための国』が基本的思想だったのですね。国民のためという考え方は入っていません。そのシステムの間違いは数十年かかって、世界でも例のない大敗という形で結果を示したのです。『日本を取り戻す』などと安倍(首相)が言うのは、何を意図しているのでしょうか」と狐崎さん。

体験をまとめ

 「若いみなさんへ」を読んだ人々から反響がありました。終戦直後の体験談を次々と送ってきたのは、出身の東京都立戸山高校の同期生たちです。2016年1月、ブックレット『私たちの“戦争”体験 終戦直前に生まれた世代から』にまとめられました。

 狐崎さんが、「若いみなさんへ」に書いた自身の終戦前後の経験はブックレットにも載せました。

 4歳のころ(1948年前後)、戦争で家も両親もなくした子どもたちに家族の食べ物を分けた記憶が残っています。「あの子どもたちは今どうしているだろう」

 狐崎さんが7歳のときに母親が亡くなりました。戦前、父親は軍人で、2人の幼子を連れて疎開を繰り返した母親は結核に侵されました。「戦争がなければ元気な母と長く暮らせたはず」との思いは、父の再婚とともに封印してきました。2人目の母の死で、いまは「戦争体験」として、語ることができるようになったと言います。

 ブックレットの編集委員の一人、横澤喜久子さん(73)は、終戦直後の食料事情や学校給食の様子を書いています。健康・運動科学を専門に教育研究に携わってきました。「専門分野でどんなに深めても大本となるすべての破壊をもたらす戦争が起こったらまったく意味のないこと。絶対に戦争を起こさせないように皆で積極的に声をあげ、伝えていくことが大事です」

 日本を戦争する国にしないと活動する「一票で変える女たちの会」に2015年の結成当時から参加しています。「街頭宣伝で訴えるのは高校生の時以来ですね」と笑います。


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