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2017年11月26日(日)

原爆は私を焼いた 15年後 生まれた子まで

『木の葉のように焼かれて』 故名越操さん

核兵器廃絶へ 扉開いた被爆者たち

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(写真)1978年、『木の葉のように焼かれて』が原爆反対、平和をめざす運動に貢献したとして、アリス・ハーズ夫人記念平和基金を受賞。それを祝う集いで話す操さん(左端)。右端が湯川さん(新婦人広島県本部提供)

 「市庁舎に横断幕を掲げてほしいよね。カープ優勝のときはすぐ掲げるんじゃけん」

 国連で核兵器禁止条約が採択された喜びをこう語るのは、新日本婦人の会広島県本部の女性たちです。

 県本部のロッカーには、1964年から毎年のように出してきた冊子『木の葉のように焼かれて』がつまっています。被爆者の手記や聞き書き、被爆者座談会などを掲載。今年51集を出しました。

 タイトルは、第1集に載った名越操(なごやみさお)さんの手記からとりました。当時15歳。爆心地から2キロ離れた自宅にいました。柱や屋根が落ちてきて大けがを負いながら祖父と山に逃げました。9人きょうだいのうち四女の妹は建物疎開の動員で出かけたまま、帰ってきませんでした。骨も見つかっていません。

 熱線と爆風で死んでいった妹、そして広島の人たちのことを「みんな木の葉のように焼かれて、消えていった」と書きました。

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(写真)第1集や英語版、記念号などの『木の葉のように焼かれて』を手に。手前左が湯川さん、右が新婦人広島県本部会長の澤田カヨ子さん。後ろ左が矢野さん、右が現編集委員の平岡澄代さん

 第1集に手記を寄せた9人のうち、実名は操さん含め2人だけ。操さんも「何もわざわざ広島の女と結婚せんでも」といわれるなど、差別が色濃い時代でした。

 手記をきっかけに『木の葉〜』の編集委員になった操さん。仕事に子育て、語り部活動と奔走します。「朝ごはんも食べずに出勤することが多くて、体のこと心配してたよね」と新婦人広島県本部元会長の湯川寛子さん(83)。結婚後広島に住み、資料館をみて、「これは語りつがなくちゃ」と『木の葉〜』作成を思いついた一人です。「広島の私たちにしかできないことだから」

 操さんの手記を読んで『木の葉〜』の編集に加わった矢野美耶古(みやこ)さん(86)は「一番つらかったのは次男の史樹ちゃんのこと。ひとごとじゃなかった」といいます。4歳で白血病を発症。4キロ離れたところで被爆した矢野さんの息子も鼻血や貧血で病院によく行きました。史樹ちゃんの入院中は「新婦人の仲間で交代で病院につめた」といいます。

 操さんは史樹ちゃんのことを公表。被爆2世がはじめて注目され、「胎内被爆者・被爆2世を守る会」が発足しました。

 「20年前の8月6日、目もくらむ熱い何千度の原爆は私を焼いた。そして私の皮膚を突きさし、15年もたって生まれてきた私の子どもまで焼いてしまったのです」―7歳で亡くなったときの操さんの日記です。

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(写真)高校生たちの自主的な平和活動を交流する「八・六全国高校生集会」(澤野さん提供)

 「史樹ちゃんは私たちです」という高校生たちがいました。広島の安田女子高校社会科学研究部です。1976年から『木の葉〜』編集部と交流。体験を聞き、学びあってきました。

 メンバーの一人、星野(現・田村)昌美さん(57)は「史樹ちゃんは生きていれば私と同じ年。被爆して15年もたって生まれた子どもがなぜ戦争のせいで死ななくちゃいけなかったのか。高校生の私にとって衝撃でした」といいます。

 顧問だった澤野重男さん(70)は、「操さんは高校生たちに『(史樹のように)ぼく生きたかった、と泣かないですむように力をあわせましょう』と呼びかけました。高校生たちは見事にこたえてきた」といいます。

 総理大臣に“(国連で)核兵器廃絶を訴えてほしい”という手紙を送ったり、原爆瓦を掘り出しモニュメントを制作したり。「自ら考えとりくみ、大きく成長していく姿の後ろに『木の葉〜』のお母さんたちがいました」

 後に、病床にふせった操さんを東京からかけつけて見舞った昌美さん。86年、操さんは56歳で亡くなります。通夜には高校生も大勢並んだといいます。

 それから31年たった今年。国連で核兵器禁止条約が採択された議場に、日本被団協事務局次長の藤森俊希さんの姿がありました。操さんの9人きょうだいのなかの一番下の弟です。昌美さんは目を見張りました。

 「私もいま長野に住んでいて、藤森さんとは平和学習などで交流があります。その藤森さんが世界に核兵器禁止を訴え、そして条約が採択されるなんて。操さん、とても喜んでいると思います」 (都光子)

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 『合唱構成 あの星はぼく』は、安田女子高校社会科学研究部と広島県高校生平和ゼミナールが1986年作成。名越操さんが亡くなって4カ月余、平和を願う操さんの遺志を受け継ごうと取り組まれました。「もしもわたしのこの腕から」「あの星はぼく」「粉雪」「白い花となって」の4曲、「ヒロシマの子からヒロシマの母へ」と題した高校生たちの寄せ書きのページもあります。



 名越 操(なごや・みさお) 15歳のときに広島市牛田町(爆心地から2・3キロ)の自宅で被爆。54年に結婚。62年、新日本婦人の会広島支部結成に参加。65年から被爆手記集『木の葉のように焼かれて』編集委員。56歳で死去。


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