2017年8月22日(火)
2017とくほう・特報
加害・被害の歴史を見つめて――戦争遺跡保存運動 高知
ここに戦争があった
戦後72年、戦争体験者が数少なくなる中、戦争遺跡を史跡や文化財として保存し、平和のために「戦争」を語り継ぐ活動に生かす取り組みがすすんでいます。「戦争遺跡保存全国シンポジウム」(保存シンポ)が開かれていた高知の運動を紹介します。(阿部活士)
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遺跡のなかでも戦争遺跡とは何か。「近代日本が繰り返し行ってきた戦争によってつくられ、残された構造物や跡地です。戦争遺跡は本物のもつ臨場感や迫力があり、そこに立てば歴史と空間を共有できます。想像力を発揮して追体験もできます。“戦争”を学び、加害・被害の歴史の扉を開く場です」
こう話すのは、保存シンポを主催する戦争遺跡保存全国ネットワークの共同代表で、高知県立埋蔵文化財センターの調査員だった出原恵三さんです。現在、平和資料館「草の家」の副館長です。
田んぼの中に掩体
出原さんの案内で、戦争遺跡のある南国市の田園地帯を歩きました。まず目をひいたのは、高知空港に近い田んぼに点在する巨大なコンクリートの塊です。高知海軍航空隊の飛行機の格納庫だった掩体(えんたい)です。
当時、敵の攻撃から飛行機を守るために掩体が41基、滑走路につながる誘導路が網の目のようにつくられました。いまは掩体だけが7基残っています。一番大きいもので、幅44メートル、奥行き23メートル、高さ8・5メートルあります。
保存運動が実って2006年、南国市史跡に指定されました。南国市教育委員会発行のパンフレット『掩体は語る』には「1941(昭和16)年1月から1944(昭和19)年にかけて軍用飛行場として国に強制的に買い取られ」て、ひとつの村(三島村、263戸)が丸ごと消滅したと記されています。
出原さんの研究(論文「高知海軍航空隊と関連遺跡」)によると、日中戦争で海軍は中国の首都・南京を、海をこえて爆撃した際、中国空軍などの反撃で大打撃をうけて零式艦上戦闘機(ゼロ戦)開発に乗り出します。高知海軍航空隊もゼロ戦の訓練飛行場として計画されましたが、最終的には偵察員養成の訓練航空隊として発足しました。
掩体づくりの作業をしたのは「中学生、近くのお母さん、高知刑務所の受刑者、朝鮮半島から強制的に連れてこられた人々などでした」「もの言わぬ掩体ですが、無言のうちに戦争の悲しさ、平和の大切さを訴えています」(同パンフ)
天井に煤(すす)けた跡や壊れた食器など生活臭が残る掩体がありました。「ここは、強制連行された朝鮮の人が戦後のある時期まで暮らしていました」と出原さん。
掩体の表面がえぐられた跡を指さしながら「米軍は沖縄戦上陸前に西日本の海軍基地をたたく攻撃に出ました。この跡もアメリカのグラマン戦闘機の機銃掃射をうけた弾痕です。日本軍は、その後“本土決戦”に備えた陣地づくり(穴掘り)を急ぎました。この戦争遺跡からも、沖縄が“時間稼ぎ”に使われたとわかります」といいます。
水際で米軍をたたく当時の軍の作戦がわかるのが南国市の久枝海岸に残るトーチカです。巨大な真っ黒なコンクリートの塊。高知県内に58基も残っています。
掩体は、千葉県茂原市(11基)、大分県宇佐市(10基)、北海道根室市(6基)などにも残っています。本土決戦に備えて1945年につくった陣地は全国各地に残っています。出原さんは次のように強調します。
「歴史という縦軸で戦争遺跡をみると、日本の近代の富国強兵政策は東アジアや中国などへ戦争をする地域を広げに広げたけれど、結局、追いつめられて最後は日本に集中します。しかも、武器も燃料もなく山に穴を掘ることしかできなかった。悲劇を超えて喜劇です。おろかなことです。そのおろかさに気がつき反省して歴史に向き合わないといけない」
細菌戦の体験者も
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「草の家」は、1989年に民立民営の平和資料館として高知市内にできました。高知民医連の診療所事務長を務めてきた岡村啓佐副館長は、草の家の活動の特徴について「加害、被害、抵抗の三つの柱を軸に史実の発掘・研究・展示をしていること」といいます。日本の中国への侵略戦争も、高知の歩兵44連隊が上海、南京などで何をしたのか具体的にたどる「中国・平和の旅」を何回もおこなってきました。
また、細菌弾をまき細菌戦用に中国人らを人体実験し虐殺した731部隊(関東軍防疫給水部)の隊員の聞き取りや中国現地ツアーもしてきました。
「抵抗」では、プロレタリア詩人・槇村浩をはじめ、戦争に命がけで反対した人たちやその反戦運動を掘り起こすことも。44連隊が出兵する際にビラを配った人たちがいたことを発見しました。
岡村さんは医療という仕事柄、731部隊の幹部が日本を占領した米国と戦犯免責を条件に人体実験の研究成果を売り渡した医療・医学界の“黒い戦後史”を追究しています。
証言者も得ました。高知出身者が多い731部隊のハイラル支部に所属した谷崎等さん(94)は数少ない生存者です。谷崎さんを訪ねると、ペスト菌を注射するネズミを飼育する任務や、終戦の天皇の放送など1945年のことを覚えていました。
「本部はすでに日本に帰っていたし、ラジオ放送の内容は、上層部は知っていた。私らには全然話がなかった。翌年の暮れまで取り残された。戦争は二度とやってはいけない。私には中国の兵隊を殺さないといけない口実なんかない。むしろ“上官の命令は天皇陛下の命令だ”といいながら、毎日どれほどたたかれたことか。戦場に行っても中国兵より上官を後ろから殺したいと何度思ったことか」と話します。
「参戦したソ連は機関銃です。こっちは一発一発弾を込めては撃つ鉄砲です。勝てるわけがない。死んだら犬死にだと逃げることだけ考えた。タコつぼを掘ってもむかえ撃つのは火炎放射器です。墓穴を掘るだけだ」と皮肉も口に出る谷崎さん。昨年は地元で開かれた戦争法反対の集会に参加しました。「安倍政権は戦争を知らんくせに、戦争をしたがる。ろくなものでない。私は戦争の怖さを知っている」