2017年4月5日(水)
主張
原発稼働・司法判断
国任せでは責任が果たせない
大阪高裁と広島地裁が相次いで原発の運転についての判断を示し、それぞれ関西電力高浜原発3、4号機の再稼働と四国電力伊方原発3号機の運転継続を認めました。見過ごせないのは二つの決定がいずれも、国が認めているのだからと、国の原子力規制委員会が規制基準にもとづき運転を認めてきたことを「不合理がない」と断じていることです。行政が認めているからと、自らの判断を放棄していたのでは司法機関としての役割は果たせません。原発の運転をめぐる裁判は全国で行われており、裁判所は自ら国民の命と暮らしを守る役割を果たすべきです。
「安全神話」をはびこらす
国(規制委)が運転を認めてきたから、裁判所として運転の是非を判断する必要がないとなれば、国の追随機関というしかありません。安倍晋三内閣は規制委が規制基準にもとづき運転を認めた原発は再稼働させることを原則にしており、これでは規制委の審査そのものに「安全神話」のお墨付きを与えるものです。
かつては原発などの「国策」については、国が決めたことだからと、裁判所が判断しないことが当たり前のようになっていました。原発についてそうしたやり方が変わるきっかけになったのは、原発の危険性が明らかになり、特に東京電力福島原発事故で「原発は安全」という「安全神話」が決定的に崩壊してからです。福島原発事故後、原発の運転が争われた裁判で、関西電力大飯原発3、4号機や高浜原発3、4号機について、福井地裁や大津地裁で運転を差し止める判断がでました。
それぞれの判断が、原発の危険から国民の命や暮らしを守ることを憲法に基づく「人格権」だと言い切り、福島原発事故の究明は不十分で、国が原発の運転を認める根拠にしてきた規制委の地震や津波の基準は「緩やかに過ぎる」などと批判したのは重要です。国追随ではなく、裁判所が自ら判断して決定するというその姿勢は、裁判でも「安全神話」が崩れたことを浮き彫りにしたものでした。
今回の大阪高裁や広島地裁の決定にはそうした姿勢は全くありません。規制委が原発の運転を認めた規制基準について、これまで解明された「事故の教訓」や「最新の科学的・技術的知見」にもとづくと持ち上げ、「不合理なものではない」と言い切っています。広島地裁に至っては、国の判断に追随するだけでなく、各地の裁判で判断が違うのは混乱のもとだと、九州電力川内原発1、2号機の運転を認めた昨年4月の福岡高裁宮崎支部の判断に従うと、裁判の独立性さえ放棄するありさまです。これでは裁判所が国民の命と権利を守ることなどできません。
国民の権利守るために
もともと裁判をおこすのは憲法にもとづく国民の権利であり、裁判官が国のいいなりにならず、各裁判官が自らの判断で決定するのは当然のことです。
大阪高裁の決定も、避難体制の不十分さなどは指摘せざるを得ません。原発がいったん事故を起こせば、空間的にも時間的にも取り返しのつかない被害を及ぼすことは福島事故で証明済みです。「安全神話」に縛られるのでなく、国民の命と暮らしを守るため、司法機関にもその役割をしっかり果たすことが求められます。