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2016年8月13日(土)

2016 とくほう・特報

イラク戦死米兵 父の伝言

息子は国守るため死んだのではない…心の中 今も涙

両国民の人生こわした戦争 平和は非暴力・協力でこそ

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 濃い緑色の制帽と制服を身につけた米海兵隊の下士官3人が、米西部カリフォルニア州エスコンディードのフェルナンド・スアレスさんの自宅を訪れ、息子のヘススさんがイラクで戦死したことを告げたのは、2003年3月28日のことでした。イラク戦争の開始から、約1週間しかたっていませんでした。(ワシントン=洞口昇幸)


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(写真)米カリフォルニア州エスコンディードの自宅でヘススさんの肖像画を見つめるフェルナンドさん(洞口昇幸撮影)

 享年20歳。すでに結婚し、父親でもあった海兵隊員のヘススさんの悲報に、家に残された家族は泣くことしかできませんでした。1歳4カ月のヘススさんの息子だけが、何が起きたのかわからず、周りを見回していました。

 「何かの間違いじゃないのか」―。気が狂いそうな心境のフェルナンドさんに、下士官らは文書を手渡しました。ヘススさんは、前日の交戦中に頭を撃たれて死亡したと明記されていました。

 現在60歳のフェルナンドさんは、ヘススさんがいなくなって1年間は毎日泣いていたと振り返ります。「今は涙を流しませんが、心の中で毎日泣いています」

 03年2月、イラクの隣国クウェートへの出発を前に空港で、フェルナンドさんは息子と最後となった抱擁を交わしました。

 「ヘスス、おまえはスーパーマンじゃない、普通の人間だ。イラクでは自分の身を守ることに専念しなさい」

 「父さん、いろいろとありがとう。僕が生きて帰って来なかったら、家族を頼む…」

 ヘススさんは、泣くのをこらえていました。ヘススさんの遺体は、戦死から約1カ月後に帰国しました。

 息子の戦死から13年、フェルナンドさんは、今でも街中で若い米兵を見かけると、「息子に似ている」と面影を追ってしまいます。

 「息子が亡くなったのは、昨日のことのようです。長い月日が癒やしてくれるとよく言いますが、時間がたてばたつほど、心の痛みは大きくなります」

 01年9月の米同時多発テロを発端とし、米国はアフガニスタンやイラクで戦争を開始。「対テロ」の名目で仕掛けた両国での戦争で、米兵6800人以上が戦死しています。

戦地訪れ

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(写真)イラクで息子が戦死した地域の土を持ち帰るフェルナンド・スアレスさん=2003年12月(本人提供)

 ヘススさんの死後、フェルナンドさんは同様の悲劇を防ぎたいとの思いから、イラク戦争反対の活動に参加。悲報から約9カ月後の03年12月には米反戦団体の代表団の一員として、イラクを初めて訪問しました。

 息子の死因が米軍のクラスター爆弾によるものだと、米メディアの現地特派員が知らせてくれました。米政府の死因のごまかしに、フェルナンドさんは強く憤りました。

 同国首都バグダッドで、息子が命を落とした地域を、フェルナンドさんは歩き回りました。奇跡的に、自分が与えたサルサソースの小瓶を見つけました。サルサソースは息子の好物。瓶に名前が書いてありました。「ここで死んだのか」―。その場に十字架を立て、土を持ち帰りました。

 フェルナンドさんの一家は米国の隣国メキシコからの移民です。ヘススさんの生まれた街は、赤ん坊が誤飲して死亡するほど麻薬がまん延。ヘススさんは、社会からの麻薬一掃に携わる職業を志すようになります。

 米カリフォルニア州のショッピングセンターで当時高校生のヘススさんが出会った米軍新兵募集係は、ヘススさんの正義感につけ込みました。「軍に入れば、司法省の麻薬取締局員にもなれる。今は平和だから戦争なんかない。訓練を受けながらお金だってもらえるよ」と、甘言を並べて勧誘しました。

 9・11米同時多発テロが起きたのは、ヘススさんが高校を卒業して米軍に入隊した直後でした。いったん契約書に署名すれば、約8年間は軍に従事しなければならず、戦地に赴かない部署への異動願がかなうことは、ほとんどありません。

 フェルナンドさんが、「イラク国民に米国で起きたテロの責任も関係もない。米軍がイラクに攻めれば世界を巻き込む。必要のない戦争だ」と話しても、ヘススさんは「僕は一兵士として責務を果たさなければならない」と、述べるしかありませんでした。

真実知る

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(写真)イラクで戦死した息子の米海兵隊員ヘススさん

 フェルナンドさんはイラクを訪れ、息子がかかわった米軍のイラク侵攻が、イラク国民に何をもたらしたのかを知りました。

 「戦争は私だけじゃなく、たくさんの家族を壊しました。米市民もイラク市民も、人生が破壊されたのです」

 薬の不足で病院で亡くなる子どもたち、破壊された学校や家々―。「地域の有力者や住民と話をしましたが、米軍を歓迎している人はいませんでした。米軍は助けに来たのではなく破壊しに来たのだと、誰もが言っていました」と、フェルナンドさんは語ります。

 孤児となり家もなく路上で果物を売りながら生活していた3人の少年のことを思い出します。「生きていれば、現在彼らは成人です。ISなど過激勢力に加わっていないかと、心配です」

 夫と3人の息子と1人の娘を米軍の爆撃で一瞬にして失った女性にも会いました。フェルナンドさんは、自分の息子のヘススさんが米兵で戦死したことや、「あなたたちの国を侵略したことを謝りたい」と伝えました。

 女性は「私は、米政府や米軍には反発していますが、あなたのような米市民を憎んでいるわけではありません」と応え、ヘススさんの死を悲しみました。

 イラクの当時のフセイン政権が大量破壊兵器を持っているとの口実で、米側から仕掛けたイラク戦争。開戦から1年も経ずにイラクに大量破壊兵器があるというのは、虚偽の情報だったことがわかります。

 「息子は、国を守るために死んだのではありません。当時の米政府の政治・経済的利益のために起こした戦争で死んだのです。それが真実です」―。フェルナンドさんは表情を厳しくしました。

一家離散

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(写真)ヘススさんの墓(いずれもフェルナンド・スアレスさん提供)

 ヘススさんを失った悲しみは同じだったにもかかわらず、フェルナンドさんの一家は離れ離れになります。フェルナンドさんが、反戦活動で息子の話をしながら政府を批判することに、妻は「息子を侮辱している」と感じていました。

 フェルナンドさんは、息子を侮辱しているわけではないと説明しましたが、理解してくれませんでした。米国には従軍兵士や退役軍人、戦死者を「国に奉仕する(した)者として誇り、たたえなければならない」という強い風潮があります。妻が抱いた考えは、不思議ではありませんでした。

 2人は離婚。息子の妻、孫にも会わせてもらえなくなりました。離婚した妻の「息子のお墓に来てほしくない」との要望も受け入れ、約10年、墓を訪ねていません。イラクから持ち帰った土に植えた木が、墓の代わりです。

 「息子が参加した戦争に勝者はいません。戦争はイラクと米国の双方の国民に、完全には癒やされない大きな傷を残しました。どの国や地域でも、非暴力で協力し合うことでしか平和はつくれません」

 昨年、匿名で送られてきた息子の肖像画をフェルナンドさんは見つめました。


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