2016年8月6日(土)
主張
広島・長崎被爆71年
国は被爆者に真摯に向き合え
アジア・太平洋戦争末期の1945年8月、アメリカ軍は広島(6日)と長崎(9日)に原子爆弾を投下、まちを壊滅させ数十万人を殺傷しました。それから71年―。被爆者の平均年齢は80歳を超えています。被爆国日本の政治が、被爆者の訴えにどのように向き合うのかが問われています。
被団協60年の重要な歩み
今年は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成から60年です。病と貧困、差別に苦しめられた被爆者が、被爆から10年以上をへた56年、「もうだまっておれないでてをつないで立ち上がろう」(結成宣言)と決意したのは、原水爆禁止世界大会開催(55年)など国民的な運動に励まされたからでした。被爆者は「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」(結成宣言)のです。
長年にわたり語り伝えられてきた、筆舌に尽くしがたい被爆体験はいま世界の指導者たちの心をとらえ、勇気ある行動へと突き動かしています。昨年の核不拡散条約(NPT)再検討会議では、条約に加わる8割以上の国が、核兵器は非人道的として、全面廃絶を訴える共同声明を発表しました。
今年も国連総会が設置した作業部会(ジュネーブ)で、核兵器禁止条約が本格的に議論されるという前進も生まれています。この会議では、参加した日本被団協代表の訴えに、各国政府の代表から称賛の拍手が送られました。被爆者の重要な役割を象徴する出来事でした。対照的なのが日本政府です。会議をボイコットした核保有国の「代弁者」のように核兵器禁止条約の交渉に反対し、批判をうけ孤立しました。被爆国にふさわしい立場への転換が求められます。
被団協が、核兵器禁止とともに、「自らを救う」ことを掲げたのは、医療保障と生活の安定が、被爆者の切実な要求だからです。被爆者への援護は徐々に拡大・改善されてきましたが、それは被爆者の粘り強い運動があったからです。
放射線が原因で医療が必要だと、厚生労働相が認めた場合は、全額国の負担で医療が受けられ月14万円余の手当が支給されます(原爆症認定制度)。ところが政府は、原爆被害を過小評価し認定を厳しく抑制してきました。そのため被爆者は2003年から集団訴訟をたたかい、国の制度が被害の実態にあっていないことを明らかにし、認定基準を改善させてきました。
しかし、認定された被爆者は、いまも被爆者健康手帳所持者の5%未満にすぎません。認定申請を却下された被爆者らは引き続き裁判をたたかい、相次いで認定すべきとの判決を勝ち取っています。国は司法判断に従い、認定制度の抜本的改正に踏み出すべきです。
被爆者は、国が「ふたたび被爆者をつくらない」との決意のもと、死者も含めた原爆被害への包括的な補償(国家補償)を求めてきました。この願いに応えるときです。
生きているあいだに必ず
「後世の人びとが生き地獄を体験しないように、生きている間に何としても核兵器のない世界を実現したい」(ヒバクシャ国際署名)「病気に苦しむ被爆者が裁判を起こさなくてもいい制度にしてほしい」。これらの被爆者の訴えに真摯(しんし)に向き合う、被爆国にふさわしい政治を、一刻も早く実現することが強く求められています。