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2016年4月13日(水)

陸自、米艦で「災害派遣」

被災地まで9日も

3・11直後 北海道から 民間船なら1日前後

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 2011年3月の東日本大震災で「人命救助」が最優先されるべき初動の時期に、陸上自衛隊と米海軍の揚陸艦による史上初の戦闘部隊の「移動作戦」が「9日間」をかけて実施されていたことが12日、本紙の取材でわかりました。災害派遣活動の一環として行われた「作戦」ですが、軍事作戦的色合いが強く、移動日数もかかりました。同作戦に参加した関係者は当時を「暗たんたる気分だった」と振り返りました。  (山本眞直)


「早く救助行けた」 関係者「暗い気分」

写真

(写真)苫小牧フェリーふ頭に接岸した米揚陸艦「トーチュガ」と陸自車両と隊員=2011年3月15日

 実施したのは陸上自衛隊第5旅団第5戦車隊(北海道帯広市鹿追駐屯地)などの人員240人と車両約80両。輸送したのは米海軍佐世保基地所属のドック型揚陸艦「トーチュガ」です。

人命より訓練

 第5戦車隊は2011年3月11日午後、大震災発生と同時に災害派遣出動を準備、待機しました。同部隊は14日午後10時、鹿追駐屯地から東千歳駐屯地(千歳市)に向けて出発。翌15日朝7時に苫小牧港でトーチュガと「合流」。同港のフェリーふ頭に接岸したトーチュガにジープや8輪装甲車をクレーンで持ち上げ甲板に搭載。大型トラックなどは数キロ沖合に移動した同揚陸艦に、米軍の上陸用舟艇で搬入しました。

 同震災での自衛隊の災害派遣活動を指揮し、国内の災害派遣では初の統合任務部隊指揮官だった東北方面総監の「東日本震災対処(概況説明)」では、震災発生の11日から19日を「人命救助」としています。ところが米揚陸艦での戦闘部隊移動は同時期に9日間もかけたのです。

 苫小牧や近隣の函館港から民間フェリーを使えば「1日前後で被災地入りでき、被災者救助ができたはず」と関係者は悔しがります。

 輸送作戦に動員されたのは戦車に砲弾などの物資を補給する支援隊、敵の航空機から戦車を守る高射部隊、燃料補給車、損傷した戦車補修用の重レッカー車など戦場でグループとして行動する戦闘団(兵たん部隊)。戦車は除かれました。

 戦車部隊は青森県の海自大湊基地で陸揚げしました。米揚陸艦はここでも数キロ沖合に停泊。米軍と海自の揚陸艇がエンジンをかけたままで艦内のドックに接近、不安定ななかで戦車部隊の車両が自走して乗り換えるという、一歩間違えれば水没する危険なものでした。

 本紙が入手した陸自北部方面隊広報紙「あかしや」は、「米海軍揚陸艦による部隊移動 陸上自衛隊史上初」と絶賛しました。(2013年4月1日号)

 関係者は指摘します。「陸からの“敵”の攻撃を回避するため沖合で陸揚げするなど、いずれも戦場を想定したもので、上級幹部はミーティングで『日米共同の検証訓練だ』と口にしていた」

危険性高まる

 自衛隊は、国内の災害派遣では初の「日米調整所」を「日米ガイドライン(軍事指針)に準じて」設置し、「共同作戦」を実施。

 防衛省は、こうした「日米共同作戦」を「将来の各種の事態への対応に係るモデルとなりうる」(「東日本大震災への対応に関する教訓事項」)としています。

 15年4月改定の日米新ガイドラインで、この「教訓」に沿い「平時」からの日米調整所の設置、「軍・軍調整メカニズム」を明記、稼働させました。

 関係者は言います。「施行した戦争法は、政府の判断しだいで海外での米軍との共同作戦が実施できる。人命救助が最優先されるときに、戦闘部隊の日米輸送作戦とはあまりにきな臭い。自衛隊が『殺し、殺される』危険性がいよいよ高まってきた」

図
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