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2015年10月24日(土)

戦後70年 北東アジアの平和

――歴史をふまえ未来を展望する

建国大学での志位委員長の講演

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 日本共産党の志位和夫委員長が22日、訪問先の韓国の首都ソウル市内にある建国大学で、「北東アジアの平和――歴史をふまえ未来を展望する」と題して行った講演は次のとおりです。


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(写真)講演する志位委員長=22日、韓国・ソウルの建国大学で

 こんにちは。ご紹介いただきました日本共産党の志位和夫です。

 戦後70年、日韓国交正常化50年の節目の年にあたって、この講演の実現のために尽力していただいた建国大学の宋熹永(ソン・ヒヨン)総長、KU中国研究院・韓仁熙(ハン・インヒ)院長をはじめとするみなさんに、また、お集まりくださったみなさんに、心からの感謝を申し上げます。それから崔相龍(チェ・サンヨン)元駐日大使からは、私の名前の由来まで含めて温かいごあいさつをいただきました。心からの感謝を申し上げます。

 私たちの住む北東アジアの国ぐには、古くから相互往来の歴史と伝統を持ち、今日、経済的にも文化的にも、交流と相互依存の関係が発展しています。文化という点でも、日本国民はさまざまな形で韓国文化に接しています。私自身で言いますと、韓国の歴史ドラマが大好きです。「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」などが、NHKテレビで放映されました。私は録画してでもすべて見てきました。こうしたドラマを通じても、日本国民は韓国の文化、歴史への理解を深めてきたと思います。

 同時に、北東アジアの国ぐにの政治的協力という点ではどうでしょうか。この分野は、経済的・文化的な分野に比べて、大きな立ち遅れがあります。その原因はさまざまであり、この立ち遅れを打開するためには、双方の努力が必要だと考えますが、私は、日本の側の問題点としては、過去の歴史に対する姿勢という問題があると考えます。

 今日は、この問題に焦点をあてて、日韓両国の戦前の歴史、戦後70年の歴史、そして未来に向けていかにして北東アジアの平和を築くかについて、私たちがどのように考えているかを、お話をさせていただきます。どうか最後までよろしくお願いいたします。

戦前――侵略戦争と植民地支配について

植民地支配の傷痕の深さ――過去の誤りに真摯に向き合ってこそ

 第一は、戦前の歴史――日本による侵略戦争と植民地支配の歴史についてです。

 私は、2006年9月に、日本共産党党首としては初めての訪韓を行い、西大門刑務所歴史館を訪問し、朝鮮の愛国者に追悼の献花を行いました。韓国政界のリーダーの方々や、歴史学者、学生のみなさんと対話する機会をもつことができました。その後もたびたび訪韓し、各界のみなさんとの対話を重ねてきました。

 その全体を通じて痛感させられたのは、日本帝国主義による36年間の植民地支配の傷痕、それへの怒りが、なお韓国国民のなかに深く存在しているということでした。植民地支配によって、国を奪われ、人間の尊厳を奪われ、言語や名前すら奪われたことへの痛みの深さは、特別のものがあると、強く感じました。同時に、韓国国民の多くが、日本との未来に向けた友好を切実に願っていることも感じました。

 歴史は書き換えることはできません。都合の悪いことを、消しゴムで消すこともできません。しかし向き合うことはできます。日本が、過去の歴史に真摯(しんし)に向き合い、この国の人々が被ってきた歴史的苦難を深く理解し、誤りを認め、清算してこそ、未来に向かって韓国のみなさんとの心を開いた交流は可能になる、これが私の実感です。私は、そうした真の友好にむけて、日韓両国政府の関係、両国国民の関係が前進するように力をつくすことをお約束するものです。

「50年戦争」ともいうべき連続した侵略戦争の歴史

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(写真)建国大学の宋総長(中央)ら同大関係者と面談を終え記念撮影におさまる志位委員長(総長の右隣)ら訪問団一行。後ろに掲げられたのは歓迎の横断幕=21日(中祖寅一撮影)

 日本は、1868年の明治維新の直後から、侵略の矛先をアジア諸国に向け、1945年の敗戦に至るまでの時期に、多くの侵略戦争を行ってきました。私たちが、その歴史をどのように認識しているかについて、お話をさせていただきたいと思います。

 まず、一連の侵略戦争の起点をどこにおくか。

 1931年のいわゆる「満州事変」――中国東北部への侵略戦争開始、1937年の中国への全面的な侵略戦争開始、1941年のアジア・太平洋戦争への拡大、そして1945年の敗戦にいたる、「十五年戦争」という捉え方は、すでに日本で定着した捉え方になっていると思います。

 しかし、その前は、平和な時代だったかというと、決してそんなことはありません。その前から日本は一連の侵略戦争を行い、それはアジアの諸国民に甚大な被害を与えるとともに、「十五年戦争」への道を開くことになりました。

 私は、日本が領土拡張と外国支配を目的とした本格的な侵略戦争に乗り出したという点では、1894〜95年の日清戦争と、1904〜05年の日露戦争、この二つの戦争が一大画期となっていると考えます。これを起点として、「50年戦争」ともいうべき連続した侵略戦争の歴史が展開された――こう捉えますと、より広い視野に立って、歴史問題の全体像が捉えられるのではないかと思います。

日清戦争、日露戦争と、韓国・朝鮮の植民地化

 それでは、日清戦争とはどんな戦争だったか。

 この戦争が、それまでの清国による影響を排除して、日本が朝鮮を支配することを目的とした侵略戦争だったことは、否定しようもない歴史の事実です。1894年6月、日本は、東学農民革命の対応を口実に、朝鮮政府の要請もないまま、大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧します。そして朝鮮王宮を軍事占領して、国王と王妃を拘禁し、軍事的脅迫のもとで日本への協力を約束させたうえで、日清戦争を開始します。つまり日清戦争は、王宮軍事占領という、小規模ですが「日朝戦争」から開始されたことになります。

 1895年4月、日清戦争の結果、日本は、下関講和条約で、朝鮮半島からの清国の影響力の排除を約束させるとともに、台湾・澎湖列島と遼東半島を日本に割譲することを認めさせました。ただし、遼東半島については、ロシア・フランス・ドイツの要求によって清国に返還させられます。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は、1895年10月、日本による朝鮮支配に反対していた明成皇后(閔妃)を殺害するという暴挙を行いました。こうして、日本は、日清戦争によって、朝鮮の植民地化への最初の一歩を踏み出し、清国から台湾・澎湖列島を奪い取り、海外領土を保有する帝国主義国家となったのです。

 つづく、日露戦争とはどんな戦争だったか。

 この戦争の性格を一言で言えば、韓国と中国東北部の支配をめぐる、日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。日清戦争で、日本は朝鮮を支配下に置こうとしますが、結局はうまくいきません。逆にロシアの影響力が強まってきます。韓国からロシアの影響力を追い出して、今度こそ韓国をわが手におさめよう――日本にとっては、日露戦争とは何よりも韓国植民地化戦争でした。

 韓国は、この戦争に関わらないという態度をとったのですが、1904年2月、日本は、日露開戦と同時に、ソウルを軍事占領し、「日韓議定書」を強要して、日露戦争への協力を韓国に約束させます。そして、1905年9月、日露戦争の講和を決めたポーツマス条約では、韓国に対する日本の支配権を全面的に認めさせるとともに、南樺太を割譲させ、中国東北部の権益を奪うことを取り決めました。

 日露戦争の「勝利」の後は、日本の韓国に対する覇権は無制限になっていきます。1905年11月、日本は「第二次日韓協約」=「韓国保護条約」(乙巳条約)を押しつけ、外交権を完全に取り上げました。「保護条約」の「締結」は、伊藤博文が憲兵を引き連れて王宮に押し入り強引に調印させるという、野蛮きわまる軍事的強圧のもとに行われたものでした。

 文字通りの強盗的なやり方で、韓国の従属国化をはかった暴虐に対して、反日義兵闘争が韓国全土に広がります。日本は、韓国人民のたたかいを血の海に沈めて、1910年、「韓国併合条約」によって、韓国・朝鮮の植民地化を完成させました。

 こうして「韓国併合」は、日本軍による繰り返しの侵略、王妃の殺害、国王・政府要人への脅迫、民衆の抵抗の軍事的圧殺によって実現されたものであり、「韓国併合条約」は、日本が韓国に対して、軍事的強圧によって一方的に押しつけた不法・不当な条約です。私は、この疑いようのない歴史の事実をきっぱりと認め、両国・両国民の共通の歴史認識にすることが、未来にとってきわめて重要であると考えるものです。

「安倍談話」――歴史の事実を乱暴に歪曲する主張は許されない

 こうした日清戦争、日露戦争の性格は、韓国のみなさんにとっては常識に属することかもしれません。しかし、私が、あえてこの歴史の事実を強調したのは、いま日本で、この歴史の事実を乱暴に歪曲(わいきょく)する主張が公然と行われているからです。

 今年、8月14日、安倍首相は「戦後70年談話」を発表しました。「安倍談話」には、「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫(わ)び」などの文言がちりばめられています。しかし、誰がそれを行ったのかの“主語”がありません。日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」を行ったという、1995年の「村山談話」に示された歴史認識はまったく語られていません。さらに、「反省」と「お詫び」も過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで、首相自らの言葉としては語らないという欺瞞(ぎまん)に満ちたものとなりました。

 それにくわえて、重大な表明がありました。「安倍談話」は、日露戦争について、次のように述べたのです。

 「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」。

 私は、首相が平然とこう述べたことに、驚きとともに強い憤りを覚えずにはいられませんでした。いったい日露戦争が韓国の人々にどのような「勇気」をあたえたというのでしょうか。この戦争によって植民地化を押しつけられた韓国は、「アジア・アフリカ」の中に入らないとでもいうつもりでしょうか。

 日露戦争での日本の「勝利」は、その直後には、帝国主義列強の抑圧に苦しむ諸民族から歓迎を受けたという事実はあります。しかし、世界の人々は、真実をすぐに知ることになりました。それは、インドの独立・建国の父の一人、ジャワハルラル・ネールが、つぎのように述べているとおりです。

 「その(日露戦争の)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」。

 私たちは、明治以降の日本の侵略戦争を全面的に「名誉回復」しようという逆流を許さないことはもちろんですが、日清・日露戦争の正当化論のような、侵略戦争の部分的な「名誉回復」も決して許さない――そういう立場で奮闘する決意です。

独立と解放を求める韓国・朝鮮人民のたたかいと日本共産党

 植民地化は、韓国・朝鮮の人々に、長い苦難と犠牲を強いるものとなりました。同時に、独立と解放を求める韓国・朝鮮の人々の抵抗は切れ目なく続きました。なかでも1919年の「三・一運動」とよばれた大独立闘争は、200万人あまりが参加し、朝鮮独立の意思を全世界に力強く訴えた、世界史的意義をもつたたかいとなりました。

 私が、紹介したいのは、当時の日本で、この朝鮮人民のたたかいに連帯したたたかいが存在していたということです。

 私は、9年前の初めての訪韓で、西大門刑務所歴史館を訪問したさいに、一つの歴史的文書のコピーをお渡ししました。今日もここに持ってまいりましたが、1931年3月1日付と、1932年3月2日付の日本共産党中央機関紙「赤旗」(せっき)です。「赤旗」は今日も続いておりまして「しんぶん赤旗」として大きく発展しています。

 ここには、「三・一運動」を記念して、朝鮮独立闘争への連帯を烈々と訴える論説が掲載されています。1923年の関東大震災のさいに多くの在日朝鮮人が虐殺された歴史を「恥づべき頁」だ、「この恥を雪(そそ)がなければならない」といって連帯を呼びかけています。次のようなスローガンが掲げられています。

 「朝鮮独立運動三・一記念日万才!」「日本、朝鮮、台湾、中国の労働者農民の団結!」「朝鮮農民に朝鮮の土地を返せ!」「打倒日本帝国主義!」「朝鮮、台湾、中国の植民地及び半植民地民族の完全なる解放!」。

 1922年に創立された日本共産党は、戦前、侵略戦争と植民地支配に命がけで反対し、日本帝国主義によって抑圧された諸民族との国際連帯を掲げてたたかった唯一の政党です。そのために多くの私たちの先輩たちは、弾圧され、命を落としました。私は、このたたかいは、21世紀の未来にむけての日韓両国・両国民の友好にとっても、歴史的意義をもつものであると、確信するものです。

戦後70年――歴史問題という角度から

戦後の自民党政治――過去の歴史にまともに向き合わない重大な弱点

 第二に、お話ししたいのは、戦後70年の歴史についてです。

 日本の侵略戦争と植民地支配に対しては、明確な歴史の審判が下されました。日本が敗戦のさいに受諾したポツダム宣言には、日本の戦争は「世界征服」のための戦争――侵略戦争だったとの判定が明記されています。さらにポツダム宣言ではカイロ宣言の履行を義務づけていますが、カイロ宣言には、「朝鮮人民の奴隷状態」に留意し、「朝鮮を自由かつ独立のもの」とするとの規定があります。日本の戦争を侵略戦争と断罪するとともに、植民地支配の清算を求めたのがポツダム宣言だったのです。

 しかし、こうした宣言を受諾して戦後の再出発をしたはずなのに、戦後の自民党政治は、過去の歴史にまともに向き合おうとしない重大な弱点をもつものとなりました。

 まず侵略戦争に対する認識の問題です。歴代の自民党政府は、1970年代から80年代くらいまでは、わが党が国会で政府に対して過去の日本の戦争の性格をただしても、「後世の歴史家が決めるものだ」といって逃げ続ける姿勢をとってきました。

 たとえば、日本と中国が国交を回復した翌年、1973年2月の国会で、わが党の不破哲三書記局長(当時)が、当時の田中角栄首相に対して、「あなたは過去の中国にたいする戦争について、これを侵略戦争と考えるのか、それとも別の戦争だと考えるのか」と質問しました。しかし、田中首相の答弁は、「過去の日本の戦争について聞かれても、……後世、歴史家が評価するものであるという以外にはお答えできません」というものでした。田中首相は、日中国交回復にあたって、中国で過去の戦争についての反省の言葉を述べてきたはずなのに、どんな性格の戦争だったかについては、口を拭って一切言おうとしなかったのです。同様の無責任な首相答弁は、1980年代の終わりくらいまで続きました。

植民地支配正当化論――日韓基本条約をめぐって

 それでは植民地支配に対する日本政府の認識はどうだったのか。率直に言って、侵略戦争に対する認識よりも、さらに遅れた認識が横行していました。

 戦後の日本政府の植民地支配に対する認識を最もよくあらわす二つの文書があります。ここに持ってまいりましたが、外務省が講和条約締結の準備過程で1949年に作成した「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」と、1950年に作成した「対日平和条約の経済的意義について」という文書です。

 実は、当時、この二つの文書は「極秘」とされていました。半世紀以上も「極秘」とされ、2005年に秘密指定解除となったものです。これらの文書では、朝鮮などの地域は「当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され(た)」ものだった、つまりまったく合法的なものだったとされています。さらに、朝鮮などの統治は「世にいう植民地に対する搾取政治」ではなく、「経済的、社会的、文化的の向上と近代化は専ら日本の貢献によるものであった」とされています。

 むきだしの植民地支配正当化論です。悪いことをしたという認識が少しもない。こういう認識で日韓国交正常化交渉を始めたわけですから、1965年の日韓基本条約に至る交渉過程、この条約をめぐる日本政府の認識には、大きな問題点があらわれました。

 第一に、日韓交渉の過程で、日本政府代表から、「日本の朝鮮統治は、良い面もあった」「わが国は良いことをしようとした」などの「妄言」が繰り返し行われ、和解への重大な障害をつくりだしました。

 第二に、当時の佐藤栄作首相が、「韓国併合条約」について、「対等な立場、自由意思で締結された」という認識を繰り返し表明したことです。これは、日本が「併合条約」を野蛮な軍事的強圧のもとで押しつけたという歴史的事実を乱暴にねじまげるものでした。

 第三に、日韓基本条約には、植民地支配については一切言及されていません。第2条では、「韓国併合条約」等について「もはや無効」と宣言されました。しかし、この条項の解釈は、日韓両政府間で分かれました。日本政府は、「併合条約」等は、締結時から効力を発生し、有効だったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈しました。これに対して、韓国政府は、「併合条約」等は、当初から無効であると解釈しました。すでに見た「韓国併合」に至る歴史的事実にてらすならば、「併合条約」は、当初から無効とみなされるべきだと、私たちは考えるものです。そういう方向で、両国政府間の解釈を一致させていくことが、日韓両国間に横たわる歴史問題を解決するうえで、いわば根本的な認識を共有するという点で、きわめて重要となると考えるものです。

 なぜ戦後の日本政治に、歴史問題に対するこうした弱点があらわれたのか。韓国のみなさんは、不思議に思われる方も多いと思います。

 ドイツの場合は、ヒトラー・ナチスに協力した指導勢力は処罰され、追放されました。しかし日本では、事情が大きく異なりました。侵略戦争と植民地支配を推進した指導勢力のうち、戦争犯罪人として裁かれたのはごく一握りの人々で、多くが「復権」し、戦後の日本政治の中枢を握ることとなったのです。こうした歴史的事情が、今日なお歴史問題での逆流が繰り返される根本に横たわっているのです。

 靖国神社の参拝問題、日本軍「慰安婦」問題、歴史をゆがめる教科書問題、過去の戦争や植民地支配を賛美する数々の暴言――これらが今日も続いている歴史的根源には、そうした問題があることを、私は、きびしく指摘しなければなりません。

前向きの変化――1990年代の「河野談話」「村山談話」

 日本国内外の批判と運動におされて、歴史問題に対する日本政府の姿勢は、1990年代に入って前向きの変化が起こります。

 1993年8月、日本軍「慰安婦」問題について、軍の強制を認め、「心からのお詫びと反省」を表明した、河野洋平官房長官の談話が発表されました。

 同年、8月、細川護熙首相は、記者会見で、過去の日本の戦争を「侵略戦争」とする認識を表明しました。

 続いて、1995年8月、村山富市首相は談話を発表し、日本が「国策を誤り」、「植民地支配と侵略」によって多大な損害と苦痛を与えたことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明しました。日本政府が「植民地支配」という言葉を用いて謝罪したのはこれが初めてでした。さらに村山首相は、「韓国併合条約」について、国会答弁で、「対等平等の立場で結ばれた条約とは考えておりません」と表明しました。これらの言明は、内外で肯定的に評価されました。

 日韓両国の関係でも、前向きの変化が起こりました。1998年、金大中大統領が来日し、小渕恵三首相との間で、「日韓パートナーシップ宣言」が行われました。この「宣言」では、「日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表明が、日韓両国の公式文書では初めて盛り込まれました。先ほどごあいさつをいただいた崔相龍大使には、当時、大きなご尽力をいただいたと聞いております。

逆流の台頭――歴史を偽造する極右勢力による政治支配を一日も早く終わらせる

 ところが日本政府のなかに歴史問題での前向きの変化が起こったまさにその時に、この変化に危機感を燃やした逆流が起こります。

 1993年8月、自民党内に、「歴史・検討委員会」という組織がつくられました。この組織は、2年後の1995年8月、『大東亜戦争の総括』という本を発表します。そこでは“過去の日本の戦争は、アジア解放と日本の自存・自衛の戦争であり、正義の戦争”だと結論づけられました。南京大虐殺や日本軍「慰安婦」問題も、すべてでっちあげだったとされました。

 この潮流は、こうした“侵略戦争礼賛”論を学校教育に持ち込もうと企て、歴史をゆがめる教科書づくりの運動を起こしました。1997年2月には、この運動を応援する国会議員の組織を発足させました。この国会議員の組織の事務局長に抜てきされたのが、当選4年目の安倍晋三氏だったのです。

 日本の政治の現状は、安倍晋三氏を先頭とする“侵略戦争礼賛”の異質の潮流が、政権と自民党をのみこんだ状態にあります。このような異常は一刻も放置できません。歴史を偽造する極右勢力による政治支配を一日も早く終わらせるために全力をつくす。これが私たち日本共産党の強い決意です。

未来にむけて――北東アジアの平和をどうやって築くか

戦争法(安保法制)を廃止し、「国民連合政府」の実現を

 第三に、お話ししたいのは、未来に向けて北東アジアの平和をどうやって築くかということについてです。

 9月19日、安倍政権は、空前の規模で広がった日本国民の反対の世論と運動に背いて、安保法制――私たちが戦争法と呼んでいる一連の法案の採決を強行しました。私たちは、この戦争法ばかりは、政府・与党の「数の暴力」で成立させられたからといって、それを許したままにしておくことは絶対にできないものだと考えています。

 国会論戦を通じて、戦争法が、日本国憲法第9条を蹂躙(じゅうりん)して自衛隊の海外派兵を進め、日本を「戦争をする国」につくりかえる違憲立法であることは明瞭となっています。それを進めたやり方も、「憲法9条のもとでは集団的自衛権は行使できない」という60年余にわたる政府の憲法解釈を一内閣の専断で覆すという、立憲主義を乱暴に破壊するものでした。

 日本の自衛隊は、戦後、一人の外国人も殺さず、一人の戦死者も出していません。これは、何よりも憲法9条の偉大な力によるものです。この平和の歩みを断ち切り、「殺し、殺される日本」につくりかえることは、絶対に認めるわけにはいきません。

 日本共産党は、戦争法が強行されたその日に、「戦争法廃止の国民連合政府」の「提案」を行いました。私たちの「提案」は、つぎの三つの柱からなっています。

 第一は、戦争法(安保法制)を廃止し、安倍政権打倒を求めるたたかいをさらに発展させようという、たたかいの呼びかけです。

 第二は、戦争法廃止で一致する政党・団体・個人が共同して「国民連合政府」をつくろうという、政府の提唱です。

 第三は、「戦争法廃止の国民連合政府」で一致する野党が、国政選挙で選挙協力を行おうという呼びかけです。

 この「提案」は、大きな国民的反響を広げつつあります。わが党と野党各党との話し合いも始まりました。戦争法案にたいして、野党5党――日本共産党、民主党、維新の党、社民党、生活の党は、結束して反対を貫きました。私は、この土台のうえに、誠実に話し合いを行うならば、野党間で合意が実現する可能性は大いにあると考えています。

 そして、「戦争法廃止、立憲主義回復、国民連合政府」という大義の旗を掲げ、野党が一致結束してたたかうならば、直面する国政選挙で勝利し、安倍政権を退陣に追い込み、それに代わる新しい国民の政府をつくる道が開かれうると考えています。

 いま日本は、戦後最大といってもいい歴史的激動のなかにあります。戦争法廃止を求めて、国民一人ひとりが、主権者として、自覚的・自発的に声をあげ、立ち上がるという、戦後かつてない新しい国民運動が広がっています。韓国のテレビ等でも紹介されていると聞きましたが、そのなかで若者が素晴らしい役割を発揮しているのは、日本の未来にとって大きな希望です。

 「国民連合政府」が実現し、この政府のもとで、日本国憲法の平和主義・立憲主義・民主主義を貫く新しい政治への一歩が踏み出されるならば、それは日本の政治に希望ある新局面をつくりだすだけでなく、アジアと世界の平和的未来への貢献にもなることは疑いありません。私は、この歴史的チャレンジを成功させるために、あらゆる知恵と力を注ぎたいと強く決意しています。

「北東アジア平和協力構想」――この地域に真の平和、安定、友好を

 それでは北東アジアの平和と安定をどうやって築くか。

 安倍首相は、戦争法を強行するさいに、ひたすら「抑止力強化」ということを繰り返しました。私たちの住む北東アジアには、さまざまな紛争と緊張の火種が存在します。しかし、そうした問題に対して、日本が「抑止力強化」の名で、もっぱら軍事で構えたらどうなるでしょう。相手も、軍事力の増強を加速することになるでしょう。そうした“軍事対軍事”の悪循環に陥ることこそ、最も危険なことではないでしょうか。どんな問題も外交的解決に徹する、そのために憲法9条の精神に立った平和の外交戦略を確立することこそ、いま日本に求められていることだと考えます。

 私たちは、その大きなヒントが東南アジアの国ぐに――ASEAN(東南アジア諸国連合)が実践している地域の平和協力のとりくみにあると考えています。ASEANは、TAC(東南アジア友好協力条約)を締結し、この条約を土台にして「紛争を戦争にしない」――あらゆる紛争問題を話し合いで解決する重層的な平和と安全保障の枠組みをつくりあげています。ASEANが現に実践している地域の平和協力の枠組みを、北東アジアにも構築しよう。こうした立場から、日本共産党は「北東アジア平和協力構想」を提唱し、その実現のために関係各国との対話を続けてきました。具体的には次の4点です。

 一つは、北東アジア規模の「友好協力条約」を締結する。二つは、北朝鮮問題は、困難はあっても「6カ国協議」の枠組みで解決する。三つは、この地域に存在する領土にかかわる紛争問題をエスカレートさせない行動規範を結ぶ。そして四つは、日本が過去に行った侵略戦争と植民地支配の反省は、地域の友好と協力のうえで不可欠の土台となる。これが私たちの提唱する「北東アジア平和協力構想」の中身です。

 私たちは、この「構想」こそ、安倍政権の戦争法に対する真の平和的対案であると確信するものです。この「構想」はまた、韓国の朴槿惠(パク・クネ)大統領が提唱している「北東アジア平和協力構想」、インドネシア政府が提唱している「インド・太平洋友好協力条約」の構想などとも方向性を共有し、響き合う内容となっていると考えます。

 この「構想」を実らせるうえで最大のカギの一つとなるのが、今日の講演の主題である歴史問題の解決にほかなりません。日本共産党は、戦後70年の節目のこの年を、日本とアジア諸国との「和解と友好」に向かう年とするために、日本の政治がとるべきつぎの五つの基本姿勢を提唱しています。

 第一は、「村山談話」「河野談話」の核心的内容を継承し、談話の精神にふさわしい行動をとり、談話を否定する動きに対してきっぱりと反論することです。

 第二は、日本軍「慰安婦」問題について、被害者への謝罪と賠償など、人間としての尊厳が回復される解決に踏み出すことです。

 第三は、少なくとも首相や閣僚による靖国参拝は行わないことを、日本の政治のルールとして確立することです。

 第四は、民族差別をあおるヘイトスピーチを根絶するために、立法措置も含めて、政治が断固たる立場に立つことです。

 第五は、「村山談話」「河野談話」で政府が表明してきた過去の誤りへの反省の立場を、学校の教科書に誠実かつ真剣に反映させる努力をつくすことです。

 みなさん。この5項目ですが、いかがでしょうか。

 北東アジアに平和と安定を築く基礎となるのは信頼です。信頼がなければ心を開いた対話はできず、真の平和をつくりだすことはできません。そして、信頼は、歴史の真実に正面から向き合い、誠実かつ真摯に誤りを認め、未来への教訓とする態度をとってこそ、得ることができる。これが私たちの確信です。

 日本の政治がこうした理性ある方向に進み、北東アジアに真の平和、安定、友好をつくりだすために、力のかぎり奮闘することをお約束して、私の講演を終わります。ご清聴ありがとうございました。


韓国側各氏のあいさつ・祝辞

 韓国・ソウル市内の建国大学で開かれた日本共産党の志位和夫委員長の講演会(22日)での同大学の李良燮(イ・ヤンソプ)副総長の歓迎あいさつ、韓仁熙(ハン・インヒ)KU中国研究院院長の開会あいさつ、崔相龍(チェ・サンヨン)元駐日韓国大使の祝辞の要旨をそれぞれ紹介します。

歓迎あいさつ

李良燮(イヤンソプ) 建国大学副総長

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(写真)李良燮建国大学副総長

 宋熹永(ソン・ヒヨン)総長に代わりお祝いの言葉を申し上げることができ光栄です。

 「戦後70年 北東アジアの平和」というタイムリーで極めて重要なテーマで、日本の現役重鎮政治家の立場から踏み込んだ分析と的確な解釈から、北東アジアにおける平和に向けた取り組みを示してもらえると期待しています。

 今年は光復(植民地からの解放)70周年、韓日国交正常化50周年の年です。これを記念して、KU中国研究院と建国大学出版部は、委員長の著書『戦争か平和か』の韓国語版を出版しました。その縁が今回の特別講演につながりました。

 委員長は著書で、日本が戦争を追求する国ではなく、周辺国と人類のために平和を追求する国になることを切実に求めています。これは、私たちが過去の歴史から学ぶことができる最も重要な価値が、まさに平和であることを示しています。

 建国大学は、誠・信・義という学是の下に、教育を通じた国の再建に取り組んできました。日本共産党も、絶えず革新し発展していく政党だと承知しています。

 KU中国研究院が、中国だけでなく北東アジア諸国との盛んな交流を通じて、研究院として発展するにあたって、志位委員長をはじめとする日本共産党のみなさまとのつながりは、大いに役立つと考えています。本日の特別講演が、長い縁の始まりとなることを願っています。

開会あいさつ

韓仁熙(ハンインヒ) 建国大学KU中国研究院院長

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(写真)韓仁熙建国大学KU中国研究院院長

 建国大学KU中国研究院の特別講演を快諾してくださった日本共産党の志位和夫委員長に、心から感謝申し上げます。

 北東アジア地域における平和は、依然として平和が脅威にさらされています。韓日関係には依然として葛藤がつきまとっています。その土台には、平和というキーワードが関係しています。

 このような時、戦後70年と北東アジアというテーマで志位和夫委員長を招請し、北東アジアの平和についての構想を聞くことのできる機会を得たことを大変うれしく思っています。

 韓半島を取り巻く北東アジアの平和は、この地域の相互協力と発展のための前提条件です。志位和夫委員長の講演を通じて、北東アジアの平和が定着し、韓日関係のさらなる協力と発展を図る貴重な機会になることを期待します。

祝辞

崔相龍(チェサンヨン) 元駐日韓国大使

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(写真)崔相龍・元駐日大使(中祖寅一撮影)

 大韓民国を訪問してくださった日本共産党の志位和夫委員長を深く心から歓迎します。

 KU中国研究院は、実に意義深い決定をしました。志位委員長は日本の政界において、理論と実践の面で卓越した政治家です。

 志位委員長は日本の安倍首相と同じ年ですが、2人の政策討論を見て、志位委員長は政策討論の達人だという印象を受けました。

 わが国の国民が村山(元)首相の歴史認識を尊敬するように、本日お越しの志位委員長も、それに劣らず歴史問題において、われわれの立場を深く理解している方です。

 建国大学の学生のみなさん。共産主義といえば何をイメージしますか。まずは暴力革命だとか、こんなイメージがありませんか。志位委員長は徹頭徹尾、平和主義者です。政治は平和路線です。

 みなさんがお持ちの志位委員長の著書を読めば分かりますが、志位委員長は学生時代から平和に対する確固たる信念を持っていました。名前は和夫です。平和の和です。

 きょうのテーマは北東アジアの平和です。北東アジアの平和の核心は何だと思いますか。韓中日の協力です。韓中日の協力がなければ、北東アジアの平和はありません。韓中日協力について、志位委員長はどのような構想をお持ちなのか、私も聞きたいし、皆さんも聞きたいでしょう。

 今日のこの場は、志位委員長とご一行と、教授と学生が一緒に、歴史と平和について考える意義深い場です。


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