2015年9月3日(木)
2015 とくほう・特報
安倍「70年談話」にみる
国民あざむく構造
70年前の9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号上で、連合国にたいする日本の降伏文書の調印がおこなわれました。これによって日清戦争から数えて51年続いた日本の戦争が終結しました。日本がおこなった半世紀にわたる戦争はなんだったのか―。安倍晋三首相の歴史認識について、日本共産党の山下芳生書記局長は8月24日の国会質問で厳しく追及しました。山下氏は「歴代内閣が認めてきた日本の侵略と植民地支配を『戦後70年談話』でも首相自身の言葉でも、はっきりと認めることをしない。これは欺瞞(ぎまん)といわなければならない」と批判しました。その国民をあざむく構造を改めて見ると―。 (山沢猛)
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■言葉ちりばめているが
「主語がない」
安倍首相の戦後70年談話(「安倍談話」、14日)の特徴は、山下氏が指摘したように「主語がない」ことです。「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」の言葉はちりばめられていますが、侵略したのは誰なのか、植民地支配というなら、どの国が、どの国を支配したのかという肝心要の点が欠落しています。
戦後50年の「村山談話」(95年)が「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り」「植民地支配と侵略によって多くの国々、とくにアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与え」たと主語を明確にしているのと対照的です。
しかも、「侵略」の言葉が出てくるのは戦前の歴史をのべた部分ではなく、戦後の原点のところです。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」と一般原則をのべたくだりです。ご丁寧に、戦前の天皇制政府が戦争であることを否定する言葉として使った「事変」と並べて、日本の起こした戦争が「侵略戦争」かどうかをいっそうあいまいにしています。
「植民地支配」の言葉が戦前の歴史で出てくるのは、「西洋諸国」のもの。あとはやはり、戦後の原点部分で「植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し」と一般原則をのべたくだりで出てくるだけです。これでは、日本の植民地支配のことを言っているのかどうかさえ定かではありません。
安倍首相は、山下氏から自身の認識を問われても「21世紀構想懇談会の報告書に…記載されている」とか、「談話がすべて」と繰り返し、日本による「植民地支配と侵略」を認めることをかたくなに拒否しました。
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■「植民地支配」への認識
靖国派と同じ
「植民地支配」への首相の歴史認識はどうあらわれているでしょうか。
冒頭で、明治維新前後から「西洋諸国」の「植民地支配の波」がアジアにも押し寄せたことを強調。「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と描きます。
この表現は、日本の侵略戦争を正しい戦争と美化する靖国神社の『遊就館図録』(旧版)が「日露戦争の勝利は…英米仏蘭等によって植民地化されたアジア諸民族に希望と自信を与え、その民族の独立運動を促した」といっていることと、うり二つです。
実際の歴史はどうだったのでしょうか。
日本が領土拡大と植民地支配を目的に本格的な侵略戦争にのりだしたのが、日清戦争(1894〜95年)、日露戦争(1904〜05年)でした。日本は日清戦争で台湾を清国から奪いとり、日露戦争で朝鮮、満州(中国東北部)からロシアを排除すると、軍隊を駐留させ朝鮮から主権を次つぎと奪い、1910年の韓国併合で植民地にしました。
山下氏が質問で指摘したように、日露戦争に先立って、日本の公使(今の大使)・三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心だった王妃・明成皇后(閔妃、ミンピ)を殺害し井戸に投げこむという事件を起こしました。(1895年)
また外交権を奪った第2次日韓協約(保護条約、1905年)のときには、天皇の親書をもった伊藤博文が韓国の閣議に乗り込んで「駄々をこねるやつがいたら、やってしまえ」といって脅し調印を迫りました。
明治政府が併合の前年(09年)に「半島を名実ともにわが統治の下に置き、諸外国との条約関係を消滅せしむるは帝国百年の長計なり」と閣議決定しているように、日清・日露戦争は朝鮮を植民地にする明確な意図のもとにたたかわれたものでした。
日本は「三・一独立運動」をはじめ朝鮮民衆の抗日独立運動を弾圧し、日中戦争、アジア・太平洋戦争の時期には、学校での日本語強制、「創氏改名」、徴兵制、日本軍「慰安婦」などを韓国の人々に強制しました。
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■「侵略」を合理化
“余儀なく”論
「安倍談話」は「侵略」との認識をごまかす一方、日本の戦争にはどういう認識を示しているでしょうか。
「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました」。談話は戦争に至る経過をこう描き、「経済のブロック化が紛争の芽を育てた」ともいっています。
この歴史認識は“余儀なくされた戦争”という当時の戦争指導部が国民に繰り返した言い分とそっくりです。
アジア・太平洋戦争開始直前の御前会議決定(41年12月1日)では「米英蘭支等の諸国はその経済的、軍事的圧迫をますます強化して…、帝国は現下の危局を打開し、自存自衛をまっとうするため米英蘭に対し開戦のやむなきに立ち至りました」と合理化しました。
実際には、日本は領土と支配圏の拡大を目的に中国を侵略し、それが行き詰まるなか、戦争資源の獲得を狙って東南アジアに進出。ドイツ・イタリアとの間で欧州とアジアでの「新秩序建設」をめざす日独伊三国軍事同盟を結び(40年)、アジア・太平洋戦争へとつきすすみました。
欺瞞の数かず
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談話には他にもいくつもの欺瞞があります。たとえば、「尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点」といいますが、原点中の原点であるポツダム宣言の受諾(45年)と憲法制定(47年)がまったくでてきません。
また「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいた」などといいますが、日本軍「慰安婦」の問題にまったくふれず、謝罪の表明もしていません。
今後の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」といいますが、日本の戦争の真実をしっかり知ることは、次の世代が国際社会で生きていくうえで最小限の条件です。
先の国会質問で山下氏は「侵略」を認めない首相にたいし「日本はアジアでも世界でも孤児になる。70年前の教訓、痛苦の反省を踏みにじる戦争法案の撤回を求める」と厳しく批判しました。「安倍談話」の欺瞞を許さない国民的世論をつくっていくことが求められています。