「しんぶん赤旗」
日本共産党
メール

申し込み記者募集・見学会主張とコラム電話相談キーワードPRグッズ
日本共産党しんぶん赤旗前頁に戻る

2015年7月22日(水)

2015 焦点・論点

戦争法案とジャーナリズム

中央大名誉教授(マスコミ論) 塚本 三夫さん

空文化する戦後再出発の誓い 平和に寄与がメディアの責務

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 mixiチェック

 安倍政権が国会を大幅に延長して、成立強行をねらう戦争法案(安保法案)をめぐって、ジャーナリズム・メディアのあり方が鋭く問われています。中央大学名誉教授でマスコミ論が専門の塚本三夫さん(75)にマスメディア・ジャーナリズムの現状について聞きました。 (聞き手・原田浩一朗)


写真

 自民党の若手・中堅国会議員の勉強会「文化芸術懇話会」(6月25日)で言論弾圧を主張する発言が相次ぎました。

見えにくい弾圧

 世論の厳しい批判にあわてた安倍首相は、1週間後の7月3日になってようやく自民党総裁としての責任を認め、陳謝しました。

 日本の新聞・通信社、主なテレビ局が加盟する日本新聞協会も、編集委員会声明を発表して抗議しましたが、報道機関としての命にかかわる重大問題であり、各社が徹底的に抗議するべきです。

 重大だと思うのは、問題の発言をした国会議員らが、広告料やスポンサーをテコにしてメディアに圧力をかけることを当然視し、得意げに語っていることです。日常的に、さまざまな経路でメディアに有形無形の圧力をかけているのは想像に難くありません。

 戦前の天皇制権力からの言論弾圧は、ある意味わかりやすかったのにくらべて、現代の言論弾圧は見えにくいのが特徴です。ジャーナリズムは奮起して、監視し暴露してほしいと思います。

抜かれた「キバ」

 アジア・太平洋戦争の敗戦直後に、日本のメディアは、こぞって再出発を誓いました。朝日新聞の宣言「国民と共に立たん」(1945年11月7日)が有名です。すべての新聞社が、戦争中、天皇制政府・軍部に積極的に協力して、国民を侵略戦争に駆り立てる役割を果たしたことを反省し、いわば許しを請うて再出発をはかったのです。

 ドイツでは、ナチスに協力した新聞がすべて廃刊になり、ゼロから出発したのと対照的でした。

 ところが、この再出発にあたっての国民にたいする公約がいつのまにか空文化しているように思います。

 メディアは、資本主義的な私企業として運営されているため、「企業の論理」と「ジャーナリズムの論理」の厳しい対立関係をはらんでいます。

 共同通信の社長も務めた原寿雄(はらとしお)さんは「『パンをとるか、ペンをとるか』を迫られた時、ペンをとる人間でなければ、ジャーナリストになるべきでない」とよくいっていました。

 残念ながら、1960年ころからの「高度経済成長」のなかで、メディアの「情報産業化」が進みました。「商品論理」が優越し、ジャーナリズム性が失われていきました。伝えるものの意味やメッセージ性が失われ、“伝えられるもの”としての「商品」が棚に並んだような「等列化」が進んだのです。

 そのなかで、「権力を監視する」という、ジャーナリズムにとって命というべき「キバ」を抜かれてしまった。

写真

(写真)沖縄の新聞2社の代表が出席した「言論の弾圧を許すな! 怒りの緊急集会」。報告するのは宮城栄作沖縄タイムス東京支社報道部長=6月30日、参院議員会館

批判性こそが命

 情報・事実の伝達のスピードを競う「情報の論理」で勝負すれば、紙のメディアはインターネットとは勝負になりません。

 ジャーナリズムは、伝達のスピードではなく、事実のどこに問題があるのかをじっくり掘り下げることが大事です。「情報の論理」ではなく、「報道の論理」「ジャーナリズムの論理」で勝負するということです。

 ジャーナリズムとは単なる個人的表現活動でもなければ、単なる「情報伝達活動」でもありません。ジャーナリズムは「社会的表現活動」です。

 「表現」は、事柄の主体的な選択・批評、その意味を再定義する活動ですから、批判的なモメント(契機)を本来的に含みます。批判性がなかったらジャーナリズムとはいえない。

 とりわけ、権力の発する情報にたいして、たえず疑問を持つべきです。権力が使う「キーワード」を無批判に使うべきではありません。

 たとえば90年8月から始まった湾岸危機のとき、「国際社会」という言葉が日本のメディアで突然使われ始めました。

 「国連」「国連加盟国」といった概念は以前からありました。これに対して「国際社会」とは、実際には「アメリカを中心とした多国籍軍を構成した諸国」のことを指す概念でありながら、あたかも世界全体を代表しているかのように装う「マジックワード」でした。

 議論のテーブルをどう設定するかもとても重要です。権力は常に、「権力にとって都合のいいテーブル」を設定しようとします。

 最近も、昨年7月に安倍政権が集団自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を閣議決定して以降、メディアの多くは政権が設定したテーブルの上に乗っかってしまい、安倍政権が提出した安保法案=戦争法案について、「あいまいだ」とか、「武力行使の要件はどうのこうの」といった細かいことを問題にするだけでした。

 「そもそもこの法案は憲法違反だ」「議論のテーブルそのものがおかしい」という根本的な批判をほとんどしなかったのです。

 6月4日に衆院憲法審査会で3人の憲法学者全員が「この法案は憲法違反だ」と断じて以降、やっと根本的批判を始めたところではないでしょうか。

読者に依拠して

 ジャーナリズムは、「どこに依拠するのか」を問うべきだと思います。権力なのかスポンサーなのか。

 違うでしょう。読者・市民から信頼され、支持される―。メディアにとってこれほど安泰なことはありません。自民党が「つぶしたい」と思う琉球新報と沖縄タイムスが沖縄県民の圧倒的な支持を得ているのは教訓的です。

 そして、今回のように、どこかの社が権力から攻撃されたら、ジャーナリズムは全力を挙げて、いっせいにたたかわなくてはなりません。

 ジャーナリズムとは、実体ではなく社会的な活動であり社会的機能を示す概念だと考えています。だからこそ、「個別の会社の論理」ではなく、「普遍の論理」、たとえば「真理」であるとか「平和」といったもの―に寄与するものでなくてはならないのだと思います。


見本紙 購読 ページの上にもどる
日本共産党 (c)日本共産党中央委員会 ご利用にあたって