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2015年7月8日(水)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第3巻「大戦下の覇権主義(上)」を語る(下)

世界再分割の四国同盟構想 ヒトラーの提案をスターリン受諾

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(写真)不破哲三・社会科学研究所所長

 不破 フランスと休戦協定を結んだ1カ月後の1940年7月31日、ヒトラーはドイツ軍の首脳会議を開いて大転換を提起しました。イギリス本土作戦を捨てて対ソ戦を準備するという大転換です。

 英国本土上陸作戦がうまくいかないということもあるが、『わが闘争』で力説していたように、ヒトラーの領土拡大のそもそもの目標は東欧、ロシアでした。

 39〜41年はよく戦争の第1期としてまとめられますが、この時期、ドイツとの同盟を一貫して対外政策の基調においていたのはスターリンだけで、ヒトラーの方は、40年7月31日を転換点にして、政治・軍事作戦のかじを対ソ戦準備の方向に根本から切り替えます。この政治史的な区別が従来、鮮明でなかった。これをはっきり区別することが決定的に大事だと思います。

スターリンを欺く「史上空前の謀略作戦」

 山口 不破さんは今回、ヒトラーがソ連と戦争するために仕掛けた「史上空前の謀略作戦」を本格的に研究しました。20世紀の歴史をとらえるうえで非常に重要な提起ですね。

 不破さんが指摘したのは、ドイツがソ連との戦争に勝利しようとすると特別な困難があったという点です。ソ連との長い国境を一気に突破しなければならず、不意打ちが決定的条件になる。それには、あらかじめ国境に強大な部隊を集結させ、しかもソ連側に戦争準備の意図を気づかれてはならない、というわけです。

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(写真)研究で使われた本の一部

大掛かりに仕組んだ対ソ戦準備の煙幕

 不破 ヒトラーが仕組んだのは、日本、ドイツ、イタリアという3国の間で高まっていた軍事同盟結成の動きを実らせたうえで、ソ連の参加によってこれを「大英帝国の巨大な遺産」を分配する四国同盟に発展させるという虚構の大構想をスターリンに示し、世界的規模での領土拡大という幻想に引きずりこむ作戦でした。

 対ソ戦の準備に不可欠なバルカンへのドイツ軍展開を、この“煙幕”でスターリンの目から隠そうという作戦です。謀略作戦としてこれほど大規模なものは世界史上あまりないですよ。

 私が最初にこのことに気づいたのは、三宅正樹さん(明治大学名誉教授)の『日独伊三国同盟の研究』を読んだときです。40年7月31日の極秘のドイツ軍首脳会議についてのハルダー参謀総長の記録が引用されていたのです。

 ヒトラーが“イギリスはロシアをあてにしてがんばっているのだから、ロシアをつぶさない限りイギリスとの戦争に勝てない。だからまずロシアをつぶす方針に転換する”と発言したというんですね。ウィーラー・ベネットの『国防軍とヒトラー』にも同じ記録が引用されていましたから、間違いないなと思いました。

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(写真)石川康宏・神戸女学院大学教授

 そこで考えてみると、このドイツ軍首脳会議の後で突然、日独伊三国同盟の構想が動き出すんです。それまでは日本が“ヨーロッパは独伊の勢力圏に、アジアは日本の勢力圏にするという三国同盟を結ぼう”ともちかけても、ドイツは乗ってこなかった。

 ところが40年8月23日に、いきなりドイツから特使派遣の申し出があり、9月9日〜24日の東京での会談のあと、9月27日にはベルリンでの日独伊三国条約調印まで、急速にことが進行します。この間にドイツ側の状況変化があったことは確実です。

 この三国条約は不思議な条約でね。ドイツとイタリアは外相が調印しているのに、日本は駐独大使が調印している。しかも、軍事同盟なのに、条約の中に相互の軍事援助の義務を定めた規定が何もないのです。

 その後、ドイツから日本の近衛文麿内閣に「ソ連と三国同盟加盟の交渉をしたい」という提起があります。将来の勢力範囲として日本には南洋、ソ連にはイラン・インド方面、ドイツには中央アフリカ、イタリアには北部アフリカを認めるという提案をソ連にしたい、と。日本はすぐに同意しました。

 ドイツはそれだけの根回しをしたうえで、ベルリンにソ連外相・モロトフを招いて、11月12日から13日にかけて会談しました。ヒトラーは、三国同盟を、ソ連を加えた四国同盟にしたいと提案し、世界分割の構想を一生懸命説明します。ソ連側のモロトフははっきりした返事をせず「帰って相談する」と言います。スターリンが1週間ほど考えて11月25日、“基本的には受諾する”と回答するんですね。

 だいたいの世界史の本では、モロトフが色よい返事をしなかったからドイツがソ連との戦争を決意した、と説明されています。しかしドイツはモロトフが代理人にすぎないことは知っていて、スターリンの返事こそが問題だったのです。スターリンが受諾したので、“しめた”とヒトラーは12月18日、「バルバロッサ作戦」という対ソ作戦の戦争指令を出すのです。

スターリンの決断の意味――ヒトラーとの公然の同盟に踏み出す

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(写真)山口富男・社会科学研究所副所長

 不破 これはスターリンにとっても極めて重大な決断でした。スターリンは39年8月に独ソ不可侵条約を結びましたが、勢力圏分割は秘密協定でしたから、ソ連の安全保障とヨーロッパの平和維持のためだとごまかして、コミンテルンを通じて各国の共産党を指導する余地がまだありました。

 ところが、四国同盟を結んで世界分割の協定が表に出たら、コミンテルンの存在の余地はないのです。ソ連の勢力圏に入らないところは全部ドイツとイタリアと日本のものになるのですから。革命運動の指導者としてあれこれの妥協をしているというジェスチャーは成り立たなくなるわけです。スターリンは、そこまで考えた上で、ヒトラーの大構想に乗る腹を決めたのでした。

 山口 この研究は、スターリンがヒトラーの謀略作戦に乗ったという事実と同時に、侵略国家の同盟に公然と参加する道に踏み切ったという問題をはっきりさせた注目すべき歴史の解明ですね。“ベルリン会談でモロトフが粘りすぎて交渉が失敗し、独ソ戦に至った”という従来の理解では、ここまで踏み切ったスターリンの覇権主義者としての姿が浮かんできません。

 不破 ドイツは41年に入ると、ルーマニアと交渉して軍隊を入れ始めますが、ソ連側は黙っているのですね。それまでならバルカンにちょっとでもドイツ軍の動きがあると、神経質に抗議をしていたのでしたが。

 これはベルリン会談直後の話ですが、ドイツが、ブルガリアに日独伊三国同盟に入るよう迫りました。ディミトロフのところへ、ブルガリア共産党から相談の連絡がきて、ディミトロフがスターリンに対応方を相談すると、“ソ連とも相互援助条約を結ぶことをブルガリアに提案した”といい、“三国同盟にはわれわれも入ることがありえるから心配するな”という指示をせよ、という回答でした。

 スターリンはその頃には、ソ連が日独伊三国同盟に入ることを、他国にもらしてもよいと考えたわけです。結局ブルガリアはソ連との条約を拒否して三国同盟だけに入りました。こんな調子で、ヒトラーはルーマニアからブルガリアまでドイツ軍を入れることに成功し、黒海沿岸からソ連国境に至る全地域に軍隊を配置する態勢をとったのです。

松岡外交――知らずに謀略外交の片棒をかつぐ

 不破 この時期の日本の動きは複雑でした。当時の外相松岡洋右(ようすけ)はもともと日独伊三国同盟にソ連を入れてもよいという構想の持ち主でしたから、ベルリン会談があったと聞き、これを日ソ関係改善のチャンスにしようと乗り込むわけです。

 ドイツに行くと、日本にも内緒でソ連を欺く謀略を進めているドイツ側は“ソ連との関係はうまくいっていないから深入りするな”と忠告しました。しかし松岡は聞く耳を持たず、イタリアとも交渉した後、ソ連に行きます。北サハリン問題でもめて交渉は一時決裂状態になるのですが、最後の局面でスターリンが乗り出して日ソ中立条約を結びます。そのときのスターリンのセリフが“これは大きな仕事の一部分だ”でした。「大きな仕事」というのは四国同盟のことですよ。

 スターリンにすれば、ドイツ、イタリアと交渉してきた日本の外相が中立条約を結びたいというのは、ドイツとの同盟構想が生きている証拠だと思えたのでしょうね。日本は知らないうちに、ソ連を欺く謀略作戦で大きな役割を担っていたわけです。

 このとき、日本はソ連の外モンゴルに対する権利を認め、ソ連は日本の満州に対する権利を認めるという、お互いの侵略を認め合う協定を外相の共同声明という形で発表しました。

 石川 ヒトラーは、口ではイギリスをたたきつぶして遺産を分けようと言う。本心は違ったわけですが、それをスターリンは真に受けたと。イギリスをたたきつぶして遺産を分割することが本当に可能だとスターリンは思っていたのでしょうか。

 不破 思っていたのでしょうね。スターリンは南方の暖かい不凍港を狙っていました。スターリンがドイツ側につけた条件には、南方まで保証するのは間違いないな、という内容が入っているのです。

 山口 スターリンが「自分は信念ある枢軸派であり、イギリスとアメリカの反対者である」と述べたという松岡外相の証言が紹介されています。松岡がスターリンと会談した後、ドイツ大使に報告した内容です。スターリンの立場をよく示していますね。

ヒトラー、スターリンの弱点につけこむ

 不破 スターリンとヒトラーの関係でいうと、スターリンは社会主義の思想をとっくに捨てているから、いくらでも裏切れるわけです。だからスターリンは、ヒトラーも自分同様に『わが闘争』に書いた「反ボリシェビズム」の思想を捨てて自分と同盟していると思い込むのです。

 ところがヒトラーは違います。ヒトラーは自分のファシズムの文字通りの狂信者でした。『わが闘争』を読んでいると、“マルクス主義というユダヤ的教説”“ボリシェビズムはユダヤ人の世界支配獲得の実験だ”とか、ユダヤ人とマルクス主義、ボリシェビズムを一体化して敵視する言葉が無数に出てきますし、対外政策では、大陸にドイツとロシアという二つの大国はいらない、ドイツの生存圏を獲得するには東方への進出以外に道はないなど、ソ連の軍事的征服をめざす戦略が骨太に強調されています。

 石川 スターリンからみても、ヒトラーは狂信的すぎたということですね。

 不破 スターリンにとって思想は道具だったけれども、ヒトラーはある意味で自分の思想のとりこになっていたのですね。

 山口 今回の研究は、スターリン論としてもおもしろいけれど、ヒトラー論としてもおもしろい。ヒトラーは、スターリンの領土拡張主義につけこんで謀略作戦を仕掛けたのですね。

 スターリンが「大テロル」を実行する際、“彼らはヒトラーと手を組んだ反革命陰謀集団だ”という口実を使いましたよね。ヒトラーはそれが噴飯ものだとわかっていたのですね。「ボリシェビキとの闘争が必要だ」という信念を持った人物が一定期間スターリンを観察し、相手が何者かを知って謀略を打ったのだなと思いました。

 不破 独ソ交渉をやっていると、「ここが欲しいから修正してくれ」といった領土拡張の話がスターリン側から絶えず出てくるのですね。最初の39年8月のポーランドやバルト3国分割の秘密協定の時にも、ドイツの併合分になっていたリトアニアを欲しくなって、あとから協定の修正を申し込んでくる、ルーマニアのべッサラビアを併合する時にも、協定になかったブコヴィナをついでにかすめとってしまう。

 山口 ブコヴィナはルーマニアの北部ですね。

 不破 そうです。ロシア領になった歴史など一度もないところなのに、ついでに取るんですね。とにかく領土に関しては意地汚い。そういうところを、ヒトラーは交渉をしながらよく見ていたと思いますね。

コミンテルン幹部の知的劣化

 石川 ソ連がドイツと連携していく中で、ディミトロフはどういう心情だったんでしょう。抵抗できない立場ではあったのでしょうが。

 不破 若干は抵抗することもあるのですが、かつて獄中でナチス・ドイツとたたかい、反ファシズム統一戦線の方針を出したときのような意気込みはなくなりますね。どこでなくなるかというと、「大テロル」を経る中でですね。

 スターリンの側近は、スターリンいいなりになっている間に、知的に低下していったと思います。多少おかしいと思っても、論争もできないからでしょう。

 石川 「大テロル」を通じて個人崇拝、個人専制体制がつくられて、そのもとで周辺部分が知的に劣化していくと、スターリンが死んでも、それを総括する力が出てこないわけですね。自己再生の力も発揮できず、それが、そのままソ連崩壊まで続いていく。この巻での歴史の究明には圧倒されました。

 (おわり)


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