「しんぶん赤旗」
日本共産党
メール

申し込み記者募集・見学会主張とコラム電話相談キーワードPRグッズ
日本共産党しんぶん赤旗前頁に戻る

2015年7月7日(火)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第3巻「大戦下の覇権主義(上)」を語る(上)

独ソ同盟下、コミンテルンの迷走

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 mixiチェック

写真

(写真)てい談する(左から)山口富男、不破哲三、石川康宏の各氏

 日本共産党の不破哲三・社会科学研究所所長の『スターリン秘史―巨悪の成立と展開』第3巻をめぐり、不破さん、石川康宏・神戸女学院大学教授、山口富男・社会科学研究所副所長の3人が語り合いました。今回のテーマは「大戦下の覇権主義」です。

 ――第3巻(第11〜15章)では、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦の最初の局面が大きな主題になっています。

スターリンの戦争規定の変転 コミンテルンの段階的誘導をはかる

 山口 第11章では、39年8月の独ソ不可侵条約に直面して各国共産党が受けた衝撃や苦悩、ディミトロフ(書記長)らコミンテルンの混乱が描かれています。

 不破さんは、第2次世界大戦の性格をどう見るかというコミンテルンの戦争規定の変転を重視し、コミンテルンのいわゆる「小テーゼ」(9月)から11月のディミトロフ論文「戦争と資本主義諸国の労働者階級」に至る経過を跡づけていますね。

最初の規定。双方からの「帝国主義戦争」

 不破 この変転は、コミンテルンを親ヒトラーの方向に段階的に誘導するスターリンの作戦でした。私たちは現在、ドイツとソ連がポーランド分割の秘密協定を結び、この独ソ同盟を軸に歴史が進んだことを知っています。しかしこれはまったく秘密の協定でした。

 だから、スターリンが最初にコミンテルンに押しつけた9月8日の「小テーゼ」(開始された戦争への対応に関する各国共産党への指令)では、この戦争は独伊と英仏の二つのグループ双方からの帝国主義戦争だ、だからどちらの側にも味方すべきでない、自国の帝国主義とたたかえ、という論理で、フランス共産党やイギリス共産党などの「反ファシズム戦争」論をおさえこんだのでした。

 石川 もはや「ファシストと民主主義の陣営を区別する意味はなくなった」、自国の帝国主義戦争に反対せよと指令していますね。

次の規定。“戦争の主要な責任は英仏にある”

 不破 「小テーゼ」のあとの9月17日、独ソの秘密協定に従ってソ連がポーランド侵攻を開始します。両国によるポーランド占領が完了し、9月28日には、独ソ境界友好条約が調印されました。

 そこで秘密協定は隠したまま、双方の軍事行動の結果を確認し合うという形で、ポーランド分割の境界線を公式に明らかにしたわけです。その時、両国は英仏に戦争中止を呼びかける共同宣言を出します。

 もちろん、英仏はそんな呼びかけには応じません。スターリンは、それ以後、このことを口実にして、戦争継続の責任は英仏にあるという形で、事実上の英仏主敵論を唱え始めるのです。“ドイツとソ連は平和を呼びかけている。戦争の責任は戦争をやめない英仏にある”という理屈ですね。

 こういう段階的な誘導作戦で、ソ連の立場として、英仏主敵、ドイツ接近の立場を公然と表に出してゆきました。

 石川、山口 なるほど。

 不破 10月に開かれたソ連最高会議では、モロトフ外相が、「侵略者」などの旧来の概念は捨てよとか、英仏の主戦論者が唱える「ヒトラー主義打倒」の戦争の呼びかけは、異教徒に対する中世の宗教戦争を思い出させるなど、ドイツの肩をもつ演説を公然とやったのです。

 コミンテルンの方も、「小テーゼ」にかわる新しいテーゼが求められますから、ディミトロフは、ソ連軍がポーランド侵攻を開始した直後に、新テーゼの作成作業にとりかかります。しかし、ディミトロフは、独ソ関係の真相などまったく知りませんから、いくら苦労しても、新テーゼなるものがなかなか書けないのです。

 最後に、テーゼではなく、ディミトロフの論文にしろと言われ、それもスターリンが大幅に手を入れて、10月末にようやく仕上がります。11月にコミンテルンの機関紙に掲載されたのですが、なぜか、コミンテルン関係の文献集などには、「9月発表」と記録されています。戦争にたいするコミンテルンの公式の方針が、2カ月以上もあとに出たというのでは、格好がつかないという思惑があったのでしょうね。

 しかし、ディミトロフの四苦八苦やスターリンの介入の実情は、ディミトロフの日記によく出ています。

 この論文の最大の特徴は、二つの帝国主義グループの「同等の責任」という規定を捨て、ドイツを免罪したことにあります。ドイツの侵略に対する各国の防衛努力を「新しい帝国主義戦争だ」と非難し、それに反対することを各国共産党の基本路線にした。「反ファシズム」からその正反対の立場にまで行ってしまったのです。

 石川 「段階的に誘導する作戦」とのお話ですが、本当に最初からそこまで考えきっていたのでしょうか。

 不破 そうでしょうね。最初から英仏主敵論では、いくらスターリンでも、理屈がたちませんからね。ただ、ドイツのポーランド侵攻作戦がスターリンの予想を超えて早く進行したので、それへの対応には、だいぶあわてた様子も見えていますね。

 山口 ディミトロフ論文が作られた経過をこれだけ克明に追って、スターリンの仕掛けを明らかにしたのは初めての研究ですね。

写真

(写真)『スターリン秘史第3巻』

バルト3国、フィンランド侵攻の乱暴なやり方

 山口 第12章に入りましょう。ポーランド制圧が終わって、スターリンはあからさまに領土拡張主義を具体化し、バルト3国の制圧とフィンランドとの戦争に入っていきます。この経過を詳しく跡づけていて、スターリンが使ったいろんな手練手管がわかります。

 不破 スターリンは、バルト3国にたいしてもフィンランドにたいしても、ドイツとの約束で政治的には決着ずみだということで、侵攻のやり方がすごく乱暴でした。ヒトラーだって、たとえばチェコスロバキア侵攻のときには、チェコ国内で「分離運動」をやらせるなど相当事前工作をしてからのりだしています。ところが、スターリンはそんなことは一切抜きです。バルト3国には、ソ連軍の駐留を含む条約の締結要求をいきなりつきつけました。

 ドイツと深い関係にあったリトアニアは、この要求を受けてドイツに助けを求めますが相手にされず、びっくりします。そういうことが39年9月から10月にかけバルト3国で一気に進みました。

フィンランド戦争。見捨てられた傀儡(かいらい)政権

 不破 フィンランドに対しては、戦略的な要地の割譲を要求して、その交渉がうまくいかないと、11月末に突然、攻撃を開始しました。そして開戦の翌日には、占領地に傀儡政権をつくったのです。

 この傀儡政権も、最初は、トゥオミネンというフィンランド共産党の書記長をモスクワに呼んで首相にする計画を立てますが、モスクワに来ること自体を拒否されました。そこで、かわりに白羽の矢をたてたのがクーシネンです。フィンランド出身とはいえ、長くフィンランドを離れてコミンテルンで活動してきた人物ですから、正体見え見えの傀儡政権ですが、開戦の翌日、「クーシネン政府」をバタバタとつくりました。

 ソ連軍の実力をもってすれば、短期決戦で十分に勝算あり、これでフィンランドはソ連のものになると、計算したのでしょう。ところが、フィンランド軍の強力な反撃を受けて最初の攻撃は失敗、翌年やっと巻き返しをはかるという状況でした。

 スターリンは、このとき、コミンテルンを通じて、「クーシネン政府」の支援運動を各国の共産党にやらせました。ところが、最後の局面で「クーシネン政府」そっちのけで現政権と交渉して、「クーシネン政府」は誰も知らないうちに姿を消しました。コミンテルンの迷走の中でも一番ひどい話です。

 この戦争でソ連軍が苦戦したことが、後々ヒトラーがソ連の軍事力を甘く見る根拠にもなるのです。

 山口 不破さんが1984年にフィンランドを訪問し、両党会談の別れ際に渡された『冬戦争』という本が紹介されています。「冬戦争を経験したフィンランド共産党の人々の今日にまで残る深刻な思いが…痛感させられた」と印象深く書かれていますね。

 不破 フィンランドはソ連の隣国ですから、共産党も、ソ連共産党の影響を強くうけざるをえなかったのですが、内心は自主独立の強い気持ちをもっていて、議長自身が日本共産党の自主独立路線に大いに関心があると言いながら、“われわれにはその立場を取る条件がない”と痛切な思いを打ち明けたものでした。いただいた本は、フィンランド戦争当時の外相の回想記で、たいへん貴重な記録でした。

 石川 ドイツと手を組む直前までやってきた「大テロル」によってスターリンの個人専制が確立し、それがコミンテルンを道具のように動かすことを可能にした。そのことがよくわかります。

 不破 これだけむちゃなことをされても、コミンテルンの指導部から反対論が出ない。これが「大テロル」が生み出した体制です。

ヒトラーの侵略戦争への協力ぶり

 山口 不破さんは、この時期のソ連のドイツへの戦争協力を明らかにしていますね。

 不破 ソ連はドイツに物資を大量に送っています。ドイツが軍事の工業製品を送り、ソ連からは原料や穀物を送るという取り決めで、ドイツはサボったんだがソ連は忠実に送るんです。ドイツの戦力に決定的な役割を果たしましたね。

 そのなかで、「大テロル」の犠牲になりソ連の監獄にいた亡命ドイツ人―多くは共産党員だったと思いますが―「釈放」問題が起きます。ワイスベルクという科学者が戦後、『被告』という本で体験を書いています。突然国外退去を命じられ「釈放」され、国境でゲシュタポに引き渡される―。そういうおぞましいことを平気でする。この間の独ソの協力は実に密接です。

深刻な影響残したフランス共産党の苦悩

 不破 ドイツは1940年の春にデンマークとノルウェーを侵攻します。コミンテルンは、この段階でも、両国の共産党に、「主要な危険は英仏帝国主義だ」という指示を出しました。スターリンは、ドイツ側に立っているのだけれど、それをコミンテルンには言えないわけだから、勝手な口実をつけて強引な指導をやるんです。

 山口 たまったものじゃないですね。ドイツ軍は40年6月14日にはパリに入ります。今回の研究では、スターリンの独ソ提携路線のもとで、ドイツ軍占領下のフランス共産党の誤りや混乱、苦労が明かされています。とくに共産党の機関紙「ユマニテ」の合法化のために、フランス共産党がドイツ占領軍と交渉していた事実は衝撃的です。

 不破 フランス共産党の場合は、一番深刻でした。39年9月の開戦当時、対独防衛戦争支持の立場に最後まで固執したのがフランス共産党でした。しかし、ソ連がドイツと条約を結んだということから、開戦直後に非合法化され、フランス政府から徹底した弾圧を受けるのです。翌年5月には、ドイツ軍がフランス侵攻を開始し、6月にはパリ陥落、そして降伏と事態は急速に進みます。

 フランス共産党は、41年6月、ヒトラーが対ソ戦を開始して以後は、英雄的なレジスタンス闘争の先頭に立つのですが、39年9月から41年6月までの時期、フランス共産党とその党員たちがどんなつらい立場に立たされたか、想像をこえるものがありますね。

 この時期のフランスの情勢と共産党の闘争については、フランスの作家ルイ・アラゴンの『レ・コミュニスト』やソ連の作家エレンブールグの『パリ陥落』などの大作がありますが、どちらも、当時の情勢の根底にある独ソ同盟の真相を知らないまま、この時期の戦争史のスターリン的解釈を背景にして書いた作品です。政治的リアリズムとは程遠い作品になっています。

 この時期のフランス共産党の混迷については、本ではかなり詳しく書きましたが、その根本にはスターリン支配下のコミンテルンの迷走がありました。

 石川 ソ連は領土を拡大し、ドイツにも領土拡大を認めていく。侵略した先には、連帯しているはずの共産党がある。その党にコミンテルンを通じて無理を押しつけ納得させる。そこから生じる混迷は深刻ですね。

 山口 怒りと同時に悲しさがありますよね。フランス共産党の場合にしても、歴史の事実にきちんと向き合うことが大事だと強く感じます。

フランス降伏の時期にバルト3国とべッサラビアを併合

 不破 ドイツのフランス占領が予想より早かったため、スターリンはパリ陥落の3日後にはあわててバルト3国を軍事占領し、フランスがドイツと休戦協定に調印した5日後にはルーマニアに圧力をかけてベッサラビアを併合します。独ソ秘密協定の最終実行をバタバタとやるんです。これを見たヒトラーはスターリンの領土拡張主義の執念を感じ取り、後々それを利用したんでしょうね。

 山口 スターリンは、40年6月以降、占領下のバルト3国をソビエト連邦に加盟させるという「赤色革命」をやります。ところが戦後のソ連の本には平和的、合法的に行われたと書かれていました。ソ連崩壊のときにバルト3国から独立運動の火の手が上がったのは、やはり歴史的な流れだったんですね。

 石川 赤軍による「赤色革命」というのは、すごい言葉ですね。侵略と覇権主義を「革命」の言葉で飾り立てるのですから。(つづく)


見本紙 購読 ページの上にもどる
日本共産党 (c)日本共産党中央委員会 ご利用にあたって