2015年6月8日(月)
2015 とくほう・特報
戦後70年―日本の戦争を考える
■ マレー半島での華僑虐殺
日本軍による一般住民の虐殺はシンガポールにとどまりませんでした(4月27日付で「シンガポールの『華僑粛清』」掲載)。第25軍(山下奉文(ともゆき)=司令官)の戦闘部隊は、1942年2月15日にシンガポール戦が終了すると、一度南下したマレー半島に戻っていき、「敵性華僑狩り」という名で中国系住民の虐殺をはじめました。(山沢猛)
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福岡県久留米市で編成された第18師団が南部のジョホール州を、広島城に司令部があった第5師団は、同州以外の半島全域を担当して分散します。そして軍司令官命令にもとづいて42年3月のほぼ1カ月間、マレー半島全域で蛮行を行いました。
東南アジアの被害者が証言
日本軍の蛮行の被害者をマレーシアから招いて「証言集会」を開いてきたのが「アジア・フォーラム横浜」(吉池俊子代表)です。1994年以来毎年、アジア・太平洋戦争開戦の12月8日の前後に、東南アジアの証言者を中心に開催し昨年で21回を数えます。
銃剣で串刺しに
2013年に再証言したのが、鄭来(チャンロイ)さんです(来日は3回目)。首都クアラルンプールに近いネグリ・センビラン(森美蘭)州レンバウ県の小集落ペダスでの事件を証言しました。
―1942年の3月4日、日本兵がゴム園にやってきた。ゴム園には男、女、子ども合わせて300人ほど、うち男は100人くらいだった。日本兵が私のいたグループを宿舎から離れたところに連行し、1列に並ばされた。母、私(6歳くらい)、弟、妹の順だった。すると、何もいわずに日本兵の一人が、母が胸に抱いていた生後6カ月ほどの下の弟を奪い取って空中に放り投げ、隣に立っていた日本兵が落ちてくる弟を銃剣で串刺しにした。弟は血だらけになり、しかし即死ではなく泣き声がした。
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その恐ろしい光景を見ているうちに、私も後ろから銃剣で刺され、体を貫通した銃剣が胸から突き出た。そして銃剣を抜くために蹴られて前に倒れた。意識がもどったのは日本兵が死体を隠すために、ゴムの木の葉を上から置いたときで、私は本能的に死んだふりをしていた。4歳の弟と2人でとにかく逃げた。家族7人のうち生き残ったのは2人だけだった。申し上げたいのは歴史を忘れてはいけないということだ。
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鄭来さんはレンバウ県の虐殺犠牲者追悼碑・墓を建立(1984年)する中心になりました。
「私を守った母」
2007年に証言したのは、蕭文虎(シャオウェンフー)さんです。
―私はネグリ・センビラン州のクアラ・ピラという町の近くのパリ・ティンギ村に住んでいて3月16日、家族を日本軍に虐殺された。私も7カ所、銃剣の傷痕がある(当時7歳)。村人たちは広場でグループに分けられいろいろな方向に連れて行かれた。私は父と母がいたグループだった。あっという間にひどいことが起きた。4人の日本兵が銃剣で前にいた人たちを無差別に殺し始めた。目の前で愛している父、母、弟、妹が銃剣で殺された。私が今生きているのは母のおかげで、母は私を抱いて地面に倒れた。銃剣が母の体を通して私に届いたから深くなかった。可能なら元日本兵の方が勇気を出して過去のことを話してほしい。私の証言とあわせて事件の有力な根拠になると思う。(蕭文虎さんは2012年死去)
陣中日誌に大量刺殺記録
マレー半島での住民虐殺の日本軍の公式記録が、1987年に発見されました。それは広島の第5師団の歩兵第11連隊第7中隊の『陣中日誌』です。林博史関東学院大学教授が、防衛庁の図書館(現在は防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室)で発見しました。
林氏は「陣中日誌は陸軍の作戦要務令(1938年)で作成を義務付けられている公文書です。原則として中隊以上の部隊で作成されました。軍の公文書で粛清の事実が命令も含めて確認されたことで、もはや虐殺を否定できなくなりました」と指摘します。
陣中日誌には、第7中隊が、ネグリ・センビラン州の州都セレンバンから東へ約20キロの町クアラ・ピラに駐屯したとき、周辺地域で行った住民虐殺が記録されていました。
部落民156人を…
住民殺害の記録は3月に集中しています。その一つ、3月16日には、クアラ・ピラでの記録として、「本掃蕩(そうとう)地区は支那人部落多数にして全部落民を集め訊問調査したる後不偵(=不逞)分子一五六を刺殺し十九時三十分クアラピラー(原文のまま)に集結す」とあります。(原文かなはカタカナ表記)
日誌によると、3月4日から21日の間に計584人を刺殺しました。
陣中日誌発見の87年、共同通信が配信して「日本軍のマレー住民大量殺害 裏付ける軍日誌発見」(東京新聞同年12月8日付)などと地方紙で大きく報じられました。
二重三重の誤認
「日本軍には二重三重の事実誤認があった」と指摘するのは、高嶋伸欣(のぶよし)琉球大学名誉教授です。
日本軍は、半島での鉄道や幹線道路の爆破を華僑ゲリラの仕業として「掃蕩作戦」をしました。しかし高嶋氏は「それはイギリス軍の残留ゲリラがやっていました。戦争が終わるとそのイギリス兵が表に出てきて、その記録を多数出版しています」と指摘します。
また「『華僑は商人で町に住んでいるはず、だから幹線道路から500メートル以上離れて住んでいる中国人はあやしい、ゲリラかその協力者に違いない』という日本軍の無知がありました。奥まったゴム園に家族で住み込んで樹液採集の作業をしていた華僑が集落をつくっていた。日本軍が襲ったのはそうした集落だったのです」といいます。
「戦争の傷跡学ぶ旅」は40回
高嶋氏は高校教師だった1977年にマレーシアを旅行したとき、マラッカ郊外の村の食堂で「日本軍がこのあたりで住民を大勢殺したのを知っているか」と店員から聞かれ、追悼碑の一つに案内してもらいました。それを契機に、教師の間で議論し自ら案内役になって、83年夏、「戦争の傷跡を学ぶマレー半島の旅」を開始。「旅」は昨年で40回に。各地に残る日本軍「慰安所」跡も調査してきました。
各州の華人団体との交流は深く、ネグリ・センビラン州では住民虐殺の証言集発行にも協力。その訪問は州の華人新聞で大きく報道されてきました。
高嶋氏は「長年、現地で虐殺の調査・聞き取りをして、追悼碑に手を合わせ、華人団体と交流してきました。さまざまなことがありましたが、『こういう日本人もいるのだから』ととりなしてくれる人もいた。侵略した事実に立って日本軍がやってはいけない不法行為をやったことを日本側も認識していると示す。そのうえで決して同じことをやらないと約束する。それがあって初めて未来に向けた国際関係を築くことができます。日本政府がアジアでまずやるべきはそのことです」と語ります。
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