2015年5月5日(火)
NYの学校 被爆証言に応える子ら
米の小さな継承者
NPT会議 日本被団協代表団
【ニューヨーク=秋山豊】日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の核不拡散条約(NPT)再検討会議要請代表団が、米ニューヨーク市内の学校でおこなった被爆証言。被爆の実相を語り、核兵器廃絶の実現を訴える被爆者に、地元の子どもたちは鶴を折って応えました。
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4月25日、リセ・ケネディ日本人学校の教室に小中学生や保護者ら約60人が集まりました。長崎原爆被災者協議会の田中重光理事(74)、埼玉県原爆被害者協議会の吉村和弘事務局次長(74)と坂下紀子さん(72)が被爆体験を語り始めました。
失った孫重ね
「人間らしく生きることも死ぬこともできない悪魔の兵器を、二度と使用してはなりません。放射能は今も被爆者を殺し続けているんです」
4歳のときに長崎で被爆した田中さんは、熱線で焼けた原爆瓦を子どもたちに手渡して訴えました。原爆投下で壊滅した長崎の写真を持って、「熱線は人間を蒸発させ、放射線は体を切り裂いた」と語ります。
真剣なまなざしで被爆証言を聞く子どもたちに、田中さんは生まれて3日で亡くなった孫を重ね、涙が止まらなくなりました。
「孫が亡くなったのは、放射能のせいなのか…。数えても仕方ないけど、生きていたら15歳になっています」
戦後、鉄道員として働きました。妻は被爆2世です。被爆から54年後の1999年、59歳で初めて授かった孫には横隔膜がありませんでした。
手術をしましたが、体温は30度にもなりませんでした。冷たい赤ん坊を抱いて温めましたが、助かりませんでした。
圧倒的多数の国が核兵器の非人道性に着目して禁止条約を求めているなか、米国の核政策に立って国際世論に背を向ける日本政府に憤ります。
「原爆の被害は70年たっても終わっていません。子や孫の世代に続いていくんです。被爆者の証言を聞いてくれた子どもたちと力を合わせ、『核兵器のない世界』を実現する道を開きたい」
つらかった母
2歳のときに広島で被爆した坂下さんは「原爆の被害は70年前のことではありません。目の前にある危機なのです。勇気を持って、被爆者の話に耳をかたむけることが明日への希望です」と訴えました。
1945年8月6日、被爆当日の記憶はありません。祖母や母親、おばから被爆の惨状を聞いて育ちました。
爆心地から1・4キロメートルの直爆でした。兄は熱線で足をやけどしました。坂下さんも柱のくぎで頭を切って血だらけになりました。
「あのとき、私は鬼になった」。坂下さんが忘れることのできない母親の言葉です。
母親は、助けを求める声を振り切って逃げたことに罪の意識を抱き続けていたといいます。原爆被害を家族以外誰にも語ることなく一昨年亡くなったと語ると、子どもたちは静まり返りました。
ルイ君の決意
被爆証言が終わると、ニューヨーク市内でドイツ人の夫と暮らすローレンツ・ケイさんとルイ君(9)親子が、坂下さんのもとに駆け寄り、被爆者へのインタビューを申し出ました。
ルイ君が語ります。
「広島、長崎でどれだけ悲惨なことがあったのかわかりやすく伝える本をつくりたい。それを売ったお金で、原爆被害の本をたくさん買って世界の学校に寄付したい」
7歳のときにナチスによるユダヤ人虐殺の歴史に関心を持って勉強を始めました。東京出身のケイさんは昨年5月、ルイ君と日本に戻った際に広島を訪ねました。偶然出会った被爆者に案内されました。そのとき、原爆がもたらした惨劇に大きなショックを受けました。
しかし、学校の友だちに原爆のことを尋ねても、誰も知らなかったといいます。
「どうしたら友だちに核兵器のひどさを伝えられるだろう」。この疑問をスタートに、原爆が何をもたらしたかを調べて本にまとめたい、と思うようになりました。
ケイさんは、ルイ君にほほ笑みながら語ります。「アメリカに暮らす日本人として、核兵器を世界からすべてなくしたいという息子に協力したい。核兵器を廃絶するために未来をになう子どもたちに真実を伝えることが大切だと思います」
坂下さんにも、笑みがこぼれます。
「核兵器禁止条約をなんとか結びたい。被爆者と思いをひとつにすることから、核兵器廃絶は実現するのです。アメリカで小さな継承者が見つかりました。被爆者にとって何よりの宝です」