2015年4月30日(木)
『スターリン秘史―巨悪の成立と展開』 第2巻を語る (下)
独ソ不可侵条約 二つの覇権主義国の“強盗の政治同盟”
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中国の抗日統一戦線とスターリン
スターリンはなぜ西安事変に激怒したか
山口 第8章では中国がとりあげられます。西安事変(1936年12月)が一つのテーマです。有力軍閥の一つの東北軍を率いた張学良が、国民党政権を指導する蒋介石を逮捕、監禁した事件です。これが国民党を共産党との内戦から「抗日」に転換させる大きな契機となりました。
私は、1993年のNHKのドキュメント番組「毛沢東とその時代」をまとめた本で、当時未公開だったディミトロフ日記の一部を読み、スターリンが事変の報に激怒したのを知りました。その理由はずっと謎でした。
不破さんの研究では、それをスターリンの国家戦略優先主義と、中国の抗日統一戦線の発展段階の中で解明していますね。
不破 私はその番組は見なかったので、ディミトロフ日記を読んで初めて、スターリンが怒ったことを知ったんです。事変の前年のコミンテルン第7回大会で中国代表の王明は、中国の統一戦線の方針は「抗日反蒋」―日本の侵略に抵抗し蒋介石政権にも反対する―だと報告してスターリンにも承認されています。
そこからいっても、張学良が蒋介石に反旗をひるがえして捕らえたことを、なぜスターリンが「日本への最大の奉仕だ」とまで非難し、怒ったのか不思議でした。
スターリンと蒋介石の秘密交渉
不破 今回わかったのは、蒋介石は国内で「反共」をやりながら、1935年10月にソ連に軍事協定締結を求めて秘密交渉をしていたということです。この交渉は結局まとまりませんでしたが、スターリンは、そういう意思表示をした蒋介石を、それ以降、ソ連の仲間だと認識するんですね。その蒋介石を中国共産党の意をくんだ張学良が攻撃したと思って怒った、というわけでした。
山口 裏にこの交渉があったというのは、これまでの歴史の空白部分ではないでしょうか。
不破 私も、最近、『中蘇(ソ)関係史綱』(2011年)という中国の歴史書を読んで初めて知りました。
中国共産党の拠点は1930年代の初めまでは南方にあり、蒋介石の包囲攻撃をくりかえし受けるんですね。最初は毛沢東主導の軍事作戦で撃破するけれど、党中央が蒋介石軍に正面反撃する作戦をやって大敗します。
それでこの拠点を捨て、1934年10月、「大長征」といわれる大移動に乗り出すのです。目的地が最初から決まっているわけではなく、戦いながら1年かけて移動して、ようやく西北部の、解放勢力がわずかな地域を占領していたところに到達して、新たな革命根拠地をつくります。
西安事変の前、中国共産党はコミンテルンの方針を受けて「抗日反蒋」で見事な統一戦線工作をやり、有力な軍閥で抗日の意志のある張学良や閻錫山(えんしゃくざん)と協定を結ぶんですね。
蒋介石はそれを知らずに張学良を共産党掃滅部隊の総司令官に任命する。でも張学良が動かないものだから、蒋介石自身が命令しようと西安に乗り込んできて、逆に張学良に捕まっちゃう。それが西安事変です。
張学良の意図は「抗日戦争をやれ」という蒋介石への兵諫(へいかん)―武力による諫言でした。そこで、調停役を果たし、蒋介石に抗日を説いたのが共産党の周恩来です。彼は、孫文がつくった軍官学校で蒋介石と一緒だったことがありました。張学良の真意と共産党の考えを真摯(しんし)に説いて、蒋介石に抗日統一戦線を約束させたのです。
西安事変のこうした経過は本当にわかりにくかった。これに関わる中国共産党中央関係の電報34通が、山口さんが北京でたまたま見つけた『コミンテルン、ソ連共産党と中国革命に関する文献資料』という中国語の本の中にあったんです。初めて見ましたよ。
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山口 この電報で流れがよくわかりました。
不破 西安事変7カ月後の37年7月、日中戦争が始まるのですが、国共合作の抗日統一戦線はまさに形成の途上にありました。西安事変のさいに、中国共産党がスターリンとコミンテルンに対し一定の自主的態度を取っていなかったら、その後の抗日戦争の歴史は大きく変わっていたでしょうね。
石川 中国共産党は、フランスやスペインの党と違って、なぜそうした態度がとれたのでしょう。他方でスターリンの張学良に対する評価などは、かなりずさんに思えます。目の前にドイツがいる、あるいはドイツ問題を利用して領土を再編できるかもしれないヨーロッパと中国とでスターリンの位置づけに違いがあったということでしょうか。
山口 位置づけと同時に、中国共産党は大長征の中でコミンテルンと直接的な連絡が取れなかったんです。電信・電報など連絡の復活は36年の半ばです。
不破 大長征のなかで毛沢東が中国共産党の主導権を握るのですが、実際に国民党と戦うなかで、コミンテルンいいなりだと失敗するという経験を重ねていました。ただし毛沢東もスターリン信仰は強くて、その枠外ではなかったんですけれどね。
革命、反革命、二つの政権の統一戦線
山口 西安事変を受けて第2次国共合作が成立しますが、不破さんは、これを「二つの政権の統一戦線だった」と強調しています。今回の新たな性格づけでしょうか。
不破 共産党は革命をすでに実行しはじめている革命政権です。蒋介石政権は反革命政権ですね。この二つの政権が抗日戦争の勝利という当面の目標で協力し合うわけだから、統一戦線といっても革命政権を解体するわけにはいかないんですよ。
石川 大学のゼミで元日本兵の証言映像を見ると、戦った相手について「中国の軍隊」というのと、「八路軍」というのと二つ出てくるんですね。「八路軍は天皇にたてつく共産主義者だと教育された」と。二つの軍隊の関係がずっといろんな解説書を読んでもわかりづらかったのですが、今回の不破さんの解説でよくわかりました。
不破 八路軍というのは、西安事変の前までは中国共産党の紅軍でした。それが、統一戦線ができて国民党政府の指揮下にある軍隊だということで部隊番号をつけて八路軍という呼称になった。八番目の部隊といった呼び方ですね。
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石川 革命派と反革命派の統一戦線だから、軍隊も解体するわけにいかず、数字を付け足したんですね。
不破 八路軍は国民党軍と統一した軍隊の一部ということになっているけれど、自治権を持っているんですね。中国共産党の支配区も「辺区政府」といって特別な自治権を持った地方政府扱いでした。
ところが、スターリンには「二つの政権の統一戦線」というのがわからない。フランス共産党が反ファシズム人民戦線をつくって、政権には入らないで議会で与党になっているのと同じくらいの関係にしか見ないわけです。
スターリンは、蒋介石がソ連とも一緒にやろう、抗日もやる、と言っている以上、中国共産党が「独自の政権を持っている必要はない」、蒋介石統治下で政党活動をやればいいじゃないか、くらいのつもりなんです。スターリンの自国の国家戦略優先主義からくる「蒋介石中心主義」は、その後の抗日戦争や戦後の対応にも影響を与えました。
ヒトラーとの“あうん”の駆け引き
―第9、第10章はいよいよスターリンとヒトラーの接近の問題です。
不破 その前に、見て置きたい問題が一つあります。スターリンは、「大テロル」で軍の首脳部だけでなく下士官くらいまでふくめて大殺りくを実行しました。これは、ソ連の防衛力に深刻な打撃をあたえました。それを強行したスターリンの意図はどこにあったのか、という問題です。
意図の一つは、軍部をきちんと握っておかないと、政治的な危機がおきたとき、軍部が反乱など起こしたら政権が崩壊する、そうならないよう徹底的に危険を除去したという目的があったでしょう。もう一つは、スターリンには、ヒトラーは当面、武力攻撃はしないという判断があったのだと思います。
ヒトラーの側も、「大テロル」を見て、ソ連はドイツと事を構える気はないと判断したんですね。
実際、ドイツとソ連の交渉が、あうんの呼吸で始まるのが、「大テロル」の終わる1938年11月ごろからです。
38年9月のミュンヘン会談のあたりからスターリンの態度はおかしいのです。ミュンヘン会談で英仏がヒトラーの要求を丸のみしてチェコスロバキアの割譲を認めても、何の反応も示さないんです。
山口 ソ連とヒトラー双方に、接近を可能にし、必要ともする条件が熟すわけですね。スターリンの領土欲はものすごく、旧ロシア帝国領に手を広げていく。そのためには、第1次大戦後の国際秩序を壊す必要があり、ヒトラーと手を結ぶ方に踏み切ります。
石川 ミュンヘン会談で英仏がドイツに抵抗しきれなかったのを見て、スターリンは「ドイツと組めば道が開ける」と思ったわけですね。他方で、ドイツの外相が駐ソ大使に「共産主義は、もはやソ連に存在しない」「独ソ間にはイデオロギー的対立はない」と言ってくる。ソ連の変化を、ヒトラーの方がコミンテルン幹部より冷静に見ているのは不思議です。
対英仏交渉の裏で独ソ交渉
山口 仕かけが見えたんでしょう。それで、38年にドイツ側からソ連に、経済交渉という形で打診的な接近があります。その交渉は中断しますが、翌年5月、ソ連のモロトフ外相がドイツの駐ソ大使、シューレンブルクとの会談で「“政治的基礎”が築きあげられた場合のみ交渉の再開に応じる」と意味深長な発言をしますね。この点に注目した解明は初めてではないでしょうか。
不破 “政治的基礎”とは何だろうとドイツ側は一生懸命考えて、だんだん「領土問題だな」とわかってくるんですね。ソ連側からは言わずにずっとほのめかして、結局、ドイツ側からバルト海諸国でもリトアニア3国でも、ポーランドでも、「領土分割の交渉に応じる用意がある」と言わせた。この手口はやっぱりスターリン流の巧妙さですね。
一方、ドイツによるポーランド侵攻の危機が迫るなか、英仏もポーランド防衛をめぐってソ連と交渉します。しかし英仏には真剣さがないわけです。ドイツの侵略の矛先をソ連に向けさせたいだけだと指摘されても仕方がない姿勢でした。スターリンが巧妙なのは、それを承知の上で時間をかけて交渉を続けて、英仏側にやる気がないことを事実で示すように仕向けたことですよ。そこだけ見ていると、スターリンに理があるように見えちゃうのね。
山口 表の英仏ソの3国交渉と、裏のドイツとの交渉で、スターリンの打つ手が立体的にわかりました。でも、これは「二股戦略」ではないんですよね。
不破 戦争の問題ですからね。スターリンが本気で英仏との交渉をまとめる気がなかったことは、ドイツがポーランドに攻めてきた場合の戦争の用意を実際には何もしていないことでわかります。ドイツとの関係が確立できると見通しての政治作戦だったんですね。
もう一つ面白いのは、スターリンは部下には“おまえはこれをやれ”と言うだけで、ほかのことは何も教えないんですよ。
英仏交渉のとき、代表団長のウォロシロフ(国防人民委員、党政治局員)に交渉の順序を全部教えて、その通りやって成功する。でも、ウォロシロフは自分が何をやっているかわからない。裏で進んでいた独ソ交渉を知らず、独ソ交渉の当日には、自分の狩場で政治局員のフルシチョフと一緒に狩りをやっているわけ。帰ってきたら独ソ不可侵条約が締結されていた。
山口 39年8月に独ソ不可侵条約が結ばれます。領土の分け取りを取り決めた秘密議定書について不破さんは、“覇権主義国家どうしの強盗の政治同盟”という性格が決定的に表明されていると書いています。真相に迫る解明です。
驚いたのは、ポーランド分割の際に、ヒトラーの親衛隊とソ連のNKVD(内務人民委員部)の幹部が提携したことや、独立回復をめざすポーランドの運動を弾圧する秘密協定までつくっていたことです。
石川 「不可侵条約」といえば、字づらは“平和を維持しましょう”という条約に見えるわけですが、実際は略奪を推し進めるための同盟をスターリンが積極的につくっていったということですね。
山口 当時の六つの独立国の領土を分割する、恐るべき略奪同盟ですね。
大義名分を仕立てコミンテルンに押し付け
石川 そういう条約を、政治局員が狩りに行っている時に決めてしまうという、このスターリンの個人専制ぶりはすごいですね。将軍や天皇でも、もう少し周りと話し合ったんじゃないかと思います。
不破 これだけ一人の指導者が自由にできる内政、外交の体制というのは、ほかに存在しなかったですね。
それから、反ファシズム戦線の方針転換についてスターリンの発言がないのと同じように、この時期についても証拠となるような発言がありません。公式に発言しているのは、もっぱらモロトフやディミトロフです。これがスターリンの狡猾(こうかつ)なところです。
ドイツがポーランドに侵攻した直後の39年9月28日には、「独ソ両政府宣言」が出されますが、これがまた巧妙なんです。独ソのポーランド分割が終わったら「これで戦争が終わった」と宣言したわけです。これ以上戦争をやる者(イギリス、フランス)が戦争継続勢力で、われわれが平和勢力だという宣言なんですよ。
ソ連には、ドイツの側に立つための大義名分が必要だったのでしょう。ドイツの側についた行動を正当化し、これをコミンテルンに押し付けました。
山口 第2巻は「スターリンは、ヒトラー・ドイツとの同盟を展開軸として、『社会主義』国家ソ連の対外政策を、その根幹にドイツ・ファシズムの擁護論をすえるところまで、ねじまげてしまった」と結ばれています。本当に、すさまじい変貌だと思います。
(おわり)