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2015年4月27日(月)

2015 とくほう・特報

戦後70年―日本の戦争を考える

シンガポールの「華僑粛清」

一般住民を占領後殺りく

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 今年は、第2次世界大戦が終結して70年です。日本共産党は第3回中央委員会総会(1月20日)で、「戦後70年の年に、『あの戦争は何だったのか』について、国民一人ひとりが正面から向き合い、考えること」を呼びかけました。靖国神社の軍事博物館「遊就館」が日本の戦争を「アジア解放の戦争だった」と正当化するなど、歴史偽造の議論が日本政治にもちこまれているなか、あの戦争がどのような戦争だったのか、シリーズで考えていきます。


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 シンガポール市街地の中心部に高さ約68メートルの塔がそびえています。この塔の名前は「日本占領時期死難人民紀念碑」で、日本ではよく「血債の塔」と呼ばれます。塔の下には、日本軍によって虐殺された人たちの遺骨が数多く眠っています。

 塔の台座には碑文があり、その一つには「深く永遠の悲しみとともに、この紀念碑は、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日から1945年8月18日までの間に殺されたわが市民たちの追悼のために捧(ささ)げられる」と刻まれています。

目的は資源の略奪

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(写真)シンガポールの「血債の塔」

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(写真)シンガポール攻略に向けマレー半島を南下する日本軍(画報『日本近代の歴史』から)

 日本陸軍が1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃より約1時間早くマレー半島東北部のコタバルに上陸。半島を縦断し、シンガポールでイギリス軍を破り占領したのは、1942年2月15日でした。占領するや日本名で「昭南島」と呼びます。その最大の目的は東南アジアの石油や鉄、スズ、ゴムなどの資源を確保し、中国戦線で泥沼化していた戦争を継続するためでした。シンガポールは東南アジアの軍事・経済の中心都市でした。

 占領からわずか3日後の18日、第25軍司令官・山下奉文(ともゆき)中将は「抗日」中国人の「掃蕩(そうとう)作戦命令」を出します。地域を区分し、華僑といわれた中国人を指定した地域に集め「抗日分子」を選別する、それを秘密裏に「一掃」するというものでした。

 この実行部隊になったのは占領後の治安・警備を担当した憲兵隊でした。命令をうけ18歳から50歳までの華僑の男子が集められ、憲兵隊による検問がおこなわれました。当時のシンガポールの人口は約70万人で、中国系住民は20万から30万人いたとみられています。その住民に対し現地警察などを協力させて、「職業はなにか」「蒋介石を知っているか」など簡単な質問や人相、服装で「反日」的かどうかを判断するというものでした。

 『シンガポール華僑粛清』の著書がある林博史関東学院大学教授(現代史・戦争研究)は、「財産のあるものや、教師など学歴のある華僑は、日本軍とたたかっていた中国の蒋介石政権を資金支援したり、反日教育をしているはずだと見なされ『選別』されました。『反日』的と見なされた者はトラックに乗せられて、海岸や沼地、谷などに連れて行かれ、多くは機関銃で射殺されました」といいます。

英国より残忍とリー元首相

生存者、目撃した住民が証言

 この殺戮(さつりく)からかろうじて生き延びた人もおり、また殺戮現場の近くに住んでいて目撃した住民、死体を処理した住民やイギリス兵の捕虜がいて戦犯裁判などで証言記録が残されました。

 林氏はその一部を著書で紹介します。

電線で数珠つなぎ

 ―タナメラ海岸(後に埋め立てられ現チャンギ国際空港)で。政府官吏だったチェン・クワンユさんたちはトラック20台ほどでまとまって連行された。後ろ手に縛られ電線で数珠つなぎにされ、波打ち際で銃撃された。彼は鼻を打たれて倒れた。重なって倒れている人々の上を日本兵が歩きながら、息のあるものを刺していった。一人の日本兵が彼の胸の上に足を乗せて隣の人を刺したが、彼は死んだ振りをして助かり、日本兵が去ってから逃げた。

響く機関銃の銃声

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(写真)シンガポール市街を行進する日本軍(ImperialWarMuseums)

 ―最も多くの遺骨が出てきたシグラップの谷で。付近に住んでいたアン・アームイさんによると2月22日、何人かの村人が日本軍に駆り出され、彼女の家の近くに七つか八つの細長い溝を掘らされた。防空壕(ごう)だろうと思っていた。その翌日早朝3時ごろ、一家は日本兵に家から追い出された。朝になってから機関銃の銃声が聞こえてきた。それは午後3時ごろまで続いた。翌日家に帰るとすべての溝や池も埋められており、帽子や衣服、靴などがあたりに散らばっていた。数日後、むかつくような臭いが漂ってきて、たくさんの犬が溝や池を掘り返していた。しかたなく一家は引っ越し、半年ほどして戻ってきた。彼女は戦犯裁判でこの証言をしている。

 こうして虐殺された中国人は、「日本軍が戦後に戦犯法廷で弁明するために使われた資料で約5000人、シンガポールでは4万人から5万人といわれます」(林氏)といいます。イギリスによる戦後の戦犯裁判で、日本の同盟通信の記者は、第25軍参謀の一人、杉田一次大佐が「5万人の中国人が殺されることになっていた。全部殺すことは不可能だとわかったが、およそ半分は処置した。そのときにやめるよう命令が出された」と言ったと証言しています。

 さらに、粛清に続いて行われた5000万ドルの強制献金も中国系住民をいっそう苦境に追いやることになりました。

『憲兵正史』も「一大汚点」と

 戦後、憲兵の戦友会・全国憲友会が発行した『日本憲兵正史』(1976年)は「シンガポール華僑粛清事件」の項目をたて8ページにわたり詳述しています。第25軍作戦主任参謀の辻政信中佐(イギリスの戦犯追及を逃れ、戦後自民党国会議員)が検問所を回り、「シンガポールの抗日勢力を一掃する」「『シンガポールの人口を半分にするのだ』などと発言して憲兵を驚かせた」と記しています。その後の占領支配について「いわゆる強圧による軍政は施行できたが、住民の真の協力は得られなかった」、「この事件は大東亜戦争史上一大汚点となった」とその暴虐を認めています。

悪魔の行いと批判

 1965年のマレーシアからの独立以来、長年にわたって首相を務めたリー・クアンユー(3月死去)は、1998年に出した回顧録の中で「日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。…同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」とその体験を語りました。

 そして、「戦争が終わって五十年もたつのに、歴代の自民党政権政府は、…この悪魔の行いについては語ろうとしない。…これらの過去を隣人に対して認めないならば、人々はこうした恐怖が繰り返されることもありえると恐れるしかない」と日本政府の姿勢を批判しました。(『リー・クアンユー回顧録』)

 林教授はこの元首相の言葉にふれながら、「華僑粛清は、戦闘後の混乱も収拾されつつあったなかで、冷静に計画され実行された大量殺人であり、殺された人は武器を持たず抵抗しようともしない一般の住民でした」とのべ、「この事実に向き合うことなく、『アジア解放の戦争だった』などと言うのはとんでもないことです」と指摘します。(山沢猛)


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