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2015年3月16日(月)

第2次世界大戦終結70年

アンネの最期の地で

独ベルゲン・ベルゼン強制収容所記念館の広報チーフ ステファニー・ビルブさん

ナチスの犯罪と向き合って若い人に悲惨な生涯伝える

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 『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ人少女アンネ・フランクが、15歳の短い命を落とした地、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所跡を訪ねました。過去の悲劇を伝え、歴史の継承につとめる同収容所記念館の広報チーフ、ステファニー・ビルブさんに、アンネの最期について話してもらいました。(聞き手 ジャーナリスト・大内田わこ)


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(写真)ステファニー・ビルブさん(大内田わこ撮影)

 ――1944年の秋、アンネ・フランクと姉マルゴットが、アウシュビッツ(ポーランド)から送られて来た時の、ベルゲン・ベルゼンは、どんな状態だったのでしょうか?

 一言で言えば、まさに混乱状態だったと思います。当時、至る所でヒトラー・ドイツの戦争が行き詰まり、連合軍に攻められていました。それでナチスは、ポーランドにつくったたくさんの強制収容所から、まだ働けると思える多くの人々を、国内の強制収容所へと移送しました。

 ベルゲンもその一つです。もともと1万人ぐらいを収容する戦争捕虜用の収容所だったのが、43年からナチスの強制収容所として使われるようになってから、収容者の数もどんどん増えています。戦争末期の45年3月は、1カ月だけで1万8千人もの人が移送されました。

飢餓も常態化

地図:ベルゲン・ベルゼン位置

 ――アンネ姉妹は、44年10月末にアウシュビッツを出て4日がかりでベルゲンへ着いています。その旅は、貨車にすし詰め状態の上、食べ物はおろか水さえ満足に与えられなかったと聞きます。その頃ベルゲンは、もう霜柱が立つような気候ですよね。衰弱した彼女たちにとってさらにつらい状態が待ち構えていたのですね。

 アウシュビッツからの、アンネを含む3千人の女性たちが到着したとき、すでに囚人を収容した木造のバラックは飽和状態でした。それで新たにテントを建てることになったのですが、床はむき出しの土の上にわらを敷いただけ、もちろんベッドもありません。雨が降れば、すぐにぬかるむ状態でした。

 その上、アンネたちが着いてまもない11月8日、ベルゲンは大きな嵐に見舞われます。テントは吹き飛ばされ、行き場を失った女性たちは結局、過密状態だったバラックの中に押し込められることになるのです。食料は同じ分量のものを2倍3倍の人数で分けることになるわけですから、飢餓状態も常態化していたと言えます。

 ――そんな中で、チフスに。

 そうですね。彼女たちがいつ亡くなったのか、はっきり分かっているのは3月ということだけで、日にちは分からないのです。ここは45年3月15日に、イギリス軍によって解放されたのですが、連合軍の接近を知ったナチスが、逃亡するとき重要な資料のほとんどを焼いてしまったものですから。

 ただ、解放後、生きてここを出ることができたアンネの友達(ヤニー・プリレスレイベル)の証言によると、病人用のバラックに移されていた姉妹を見舞ったら、いるはずのベッドに2人はいなかった。すぐに意味を悟って探し、バラックの前の死体の山に2人を見つけ、そこから引きずり出して、集団の墓地とされていた露天の場所まで運んで葬った、と語っています。

 ――そうですか…、その年には、ものすごい数の人々が亡くなったそうですね。

 3月だけで、1万8千人が亡くなり、その多くがチフスか餓死です。ここにはガス室はなく、小さな焼却炉が一つあったのですが、死者の数があまりにも多く、焼くこともできなくなり、大きな穴を掘ってそこを墓場としたのです。

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(写真)北西ドイツの交通の要衝ハノーバーから、ローカル線で30分余のツェレ駅からバスに乗り継いで、1時間あまり原野を走ると、厳しい風に吹きさらされるベルゲンの大地が広がり、強制収容所跡があります

 ですから、この跡地を歩かれると分かりますが、あちこちに、2000、5000など数字を書いた塚があります。それぐらいの数の方たちがそこに眠っているという証しです。跡地にはアンネ姉妹のお墓のように、いくつかの墓標がありますが、それは後に建てられたものです。

 (ベルゲン・ベルゼンは、後にニュルンベルク国際軍事裁判で「巨大なる恐るべき死体置き場」と呼ばれ、ナチスの犯罪の証拠とされました)

 ――若い人の訪問も多いですか?

 特に学校の授業の一環として、たくさんの生徒たちがやって来ます。彼らは、ここへ来るまでにもうすでにアンネ・フランクのことは、『日記』を読んだりしてよく知っているのですが、ここへ来て、アンネがカオス(混乱)状態の中で死んでいったということを知るのです。そしてまた、彼女が多くの悲惨な生涯を終わった人々のなかの1人であるということも学びます。

 ――アンネを通してナチスの犯罪についても学んでいくわけですね。

 私も16歳のときに『日記』を読みました。自分と同じぐらいの年齢なのにとてもおとなという感じを持ちました。彼女の日常、2年間という長い時間を、隠れ家で息をひそめて生きなければならなかった少女がいたということにとてもショックを受けました。なぜ、どうして? ユダヤ人だというだけで。そういう疑問や関心から、ホロコースト(大虐殺)やわが国の歴史、特に国家社会主義の問題が私の勉強のテーマとなりました。

心痛めること

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(写真)アンネ・フランクと姉マルゴットの墓

 ――それでこのお仕事を。

 2000年からここで。やりがいのある仕事です。心を痛めることもたくさんあります。例えば、生存者の方のお話をうかがうときです。40人あまりの方から貴重な体験を聞きました。また、アンネの最期を語る時なども勇気がいります。

 今、こういうタブレット(液晶画面を持つ携帯パソコン)を使って、収容所の説明をしています。ここは病気のまん延で、手が付けられない状態だったため、解放したイギリス軍がバラックなどすべてを焼き払いました。ですから訪れた人は広い跡地に立った時、当時の様子をイメージするのが、なかなか難しいのです。やってみると、若い人たちにとても人気です。彼らは扱いも上手です。私などより。(笑い)

 ――日本は、戦後処理の問題を含めてドイツに学ぶべきところがたくさんありますね。

 私には忘れられない思い出があります。大学のゼミ(歴史学部)で、それぞれの国の国歌を歌おうということになった時、日本の留学生くみこが歌えない、歌いたくないと言ったのです。私にはすぐ、それが歴史問題だと分かりました。ドイツも日本も過去の問題を抱えた国です。ただドイツは過去ときちんと向き合い、反省し、周りの国とも仲良くやってきています。その経験を私は誇りに思います。確かに時間がかかることでしょうが、日本のこれからにとっても、それはとても大事なことではないでしょうか。


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