2014年11月12日(水)
「軍神」の弟と言われて…
元沖縄県警刑事部長 大舛重盛さん(84)
兄25歳 ガダルカナル戦で玉砕、姉16歳 ひめゆり学徒で弾雨に倒れ
戦死した兄は「軍神」として沖縄戦への県民総動員に利用され、姉は16歳の若さでひめゆり学徒として戦死。兄と姉を失った元沖縄県警刑事部長の大舛(おおます)重盛さん(84)は「遺族としての発言なら」と本紙のインタビューに応じ、「再びあのような戦争のない世を願う」と沖縄本島の自宅で語りました。沖縄戦から69年、戦後70年を前に、いまだ癒やされない遺族の痛苦の胸中は―。
(山本眞直)
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大舛さんは、8人きょうだいの三男として与那国島で生まれました。沖縄県警の第11代刑事部長として1989年3月に退官。
長兄の大舛松市陸軍大尉は、43年1月13日に南太平洋のガダルカナル戦で25歳の時、戦死しました。遺族の元に戦死公報が届いたのは同年10月でした。
軍人最高の栄誉である「個人感状」が授与され、当時の新聞はいっせいに「軍神大舛に続け」と沖縄戦への県民総動員報道を繰り広げました。
「兄に続く」
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重盛さんは当時、沖縄県立第一中学校に入学したばかり。「軍神」の弟として、兄の死を悲しむことなどできず「私も兄に続いて一生懸命にがんばります」としか言えませんでした。
沖縄師範学校女子部に通っていた2歳違いの姉、清子さんはひめゆり学徒として南風原(はえばる)陸軍病院に動員され、沖縄戦の組織的戦闘終結の4日前の45年6月19日早朝の米軍の猛爆にさらされ、亡くなりました。16歳でした。
重盛さんは3年前に姉の黒島八重子さんと『ひめゆり学徒看護隊 大舛清子無言の戦記』を出版しました。
八重子さんは、いまだ癒えない思いを綴(つづ)りました。「わずか十六歳の清子が敵弾に倒れ、喉の渇きを癒されることもなく、手をとって最期を見守ってくれる人もないまま、弾雨下の恐怖の中で、孤独に、しかも沖縄戦終結の数日前に生を終えたことはまことに痛ましく悔しい」「戦争こそは人間の生み出す、生きながらのこの世の地獄ではなかろうか」
国の愚かさ
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重盛さんは、「無謀な戦争を続けた国の愚かさを痛感し、悲しく、悔しい」と何度も口にしました。
「やっと16歳という少女。米軍の攻撃で負傷、自分を置いていってくれ、と。そんな場面は読んでおれない」「大舛中隊の最後の突撃も食べるものもなく、這(は)って歩く兵が14人しかいない。ばかげた玉砕だ。兄の松市は沖縄の戦争を盛り上げるための材料にされた。2人の死はあまりにも惨めだ」
八重子さんと重盛さんら遺族は07年6月に与那国島の海岸線に沿った「大舛大尉の墓」の前に「ひめゆり学徒 大舛清子の碑」を建立しました。沖縄戦への万感の思いを刻んだ短歌と碑文が記されています。
「沖縄の いくさに その身 果てたるも
魂かえり ねむれ
父母の みもとに」
「清子の短い生涯を悼みその鎮魂と再び戦争のない世を願い、この碑を建立する」