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2014年10月6日(月)

ゆうPRESS

若手記者が行く 「沖縄戦終焉の地」

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 米軍新基地建設は許さないと島ぐるみのたたかいが続く沖縄県に取材に行きました。初めて訪れた沖縄―。エメラルドグリーンや深い青色に輝く海の美しさに息をのみました。沖縄には、第2次世界大戦で多くの住民を巻き込んだ地上戦の歴史があります。平和ガイドと「沖縄戦終焉(しゅうえん)の地」の本島南部を歩きました。

 (仁田桃、写真は栗山萌実)


 那覇市から車で約40分の「平和の礎(いしじ)」(糸満市)に向かいました。

 「満州事変(1931年)」からの15年戦争で犠牲になった沖縄県民と、沖縄戦で犠牲になった全ての人24万人余の名前が刻銘されています。毎年新たに犠牲者の名前が刻まれます。

 その数に圧倒されました。名前は出身地ごとに記されています。正確には分からず「○○の父」と書かれているものも。

 読谷(よみたん)村の区域でガイドが立ち止まり説明してくれたのは―。

 この村のチビチリガマ(ガマ=自然洞窟)で、集団自決によって82人が亡くなりました。41人が小学生以下でした。

 45年4月1日、同村に米軍が上陸。米兵は住民に投降を呼びかけましたが「アメリカー(米兵)は鬼畜」と、教えられていた住民の一部は「アメリカーの手にかかるなら自決しよう」と、ガマの中に火を付けました。

 火は、小さな子を持つ母親らが消しましたが、自決を主張する人と反対する人で争いが起きました。

 翌2日、18歳の女性が「お母さん、殺して」と母親に頼み、母親は娘を包丁で切りつけました。迫る米兵の恐怖と住民同士の争いでガマはパニック状態に。再び火が付けられ、多くの人が煙に巻かれて亡くなりました。

 別のガマは、ハワイに出稼ぎに行った経験のある“おじぃ”が米兵と交渉して、約千人が助かりました。

 国家や教育、社会の力で統制された「天皇のために命をささげる」という思考の結果が「集団自決」だったのだと分かりました。

 案内をしてもらうまで、「数」でしか捉えられなかった碑の名前が話を聞くことで、一人ひとりには人生があり、暮らしがあったんだと気付きました。人間の命を奪う戦争のむごさを肌で感じました。

 空白の碑が並ぶ一画があります。当時、植民地とされた北朝鮮・韓国・台湾の出身者です。創氏改名され、名簿もないまま戦争にかり出されました。遺族が刻銘を拒否する場合もあるといいます。

◇   ◆

 私たちは南城市にある糸数アブチラガマも訪ねました。

 日本軍の陣地や倉庫として使用された後、陸軍病院の分室となり病院撤退後は、軍民雑居の避難壕(ごう)になりました。

 ガマに入ると、ひんやりとした空気に包まれ、懐中電灯で照らす部分しか見えません。

 懐中電灯を消してみました。ポタポタ…と、絶えず水滴がしたたる音が聞こえます。暗闇で時間の感覚が分からなくなりました。

 当時、糸数アブチラガマにたどり着いた15〜19歳の、ひめゆり学徒隊の女学生たちは、発電機で明るいガマに「地下の町だね」と喜んだそうです。

 しかし、別部隊の移動にともない発電機は持ち去られ、ろうそくなどの明かりを頼りに女学生は、昼も夜もなく負傷兵の看病をしました。

 陸軍病院は撤退し、置き去りにされた負傷兵。戦々恐々と日々を過ごした住民―。どんな気持ちだったのでしょう。

◇   ◆

 新基地建設が狙われている辺野古で出会った建設反対の座り込みを続けている女性(85)は、15歳で母と弟を連れて戦場を逃げ惑い、多くの死や悲惨な光景を目にしました。

 女性は「もう戦争が来るのはいやだ。だから座り込みをやっている。戦争につながるものはいらない」と記者に話してくれました。過去をしっかり見つめ、どう生きていくのかを考える時間となりました。

図・写真

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