2014年9月12日(金)
吉田所長(当時)の調書を公開
福島原発事故 制御困難まざまざ
電源喪失に「絶望した」
政府は11日、東京電力福島第1原発事故で政府の事故調査・検証委員会が行った吉田昌郎元所長(故人)の聴取記録調書を、内閣官房のホームページで公開しました。調書からは、冷却電源喪失によって炉心溶融、放射性物質の大量漏出という最悪の事態が迫る中、吉田氏らが極限状況に追い詰められていく様子を生々しく伝えています。調書が示しているのは、ひとたび過酷事故が起きれば制御困難に陥る原発の本質的な危険性です。
吉田氏の聴取は、事故4カ月後の2011年7月から、11月にかけて行われました。公開された調書はA4用紙で約400枚に上ります。
吉田氏は、事故発生直後に非常用ディーゼル電源を含む全交流電源が喪失したと報告を受けた際の現場の状況について、「みんなが愕然(がくぜん)という感じで、声が上がらな」かったと説明。「参ってしまった」「絶望した」などとも答えています。原子炉の冷却について「自分で考えてもこれというのがない」と述べ、八方ふさがりだった状況を振り返りました。
津波が襲った後、緊急時に1号機の炉心を冷却する非常用復水器が動いていなかったことに東電が気づかず、事態を悪化させました。吉田氏は「思い込みがあった。猛烈に反省しているが、現場からのSOSがこちらに届かなかった」と語っています。
11年3月14日夜、2号機の原子炉への海水注入に苦心した際の状況については、炉心溶融が進むと「放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、我々(われわれ)のイメージは東日本壊滅ですよ」という心境を述べています。
2号機が危機的状況に陥った同3月15日、第1原発で事故対応を指揮する幹部級社員を含む約650人が約10キロ離れた福島第2原発に退避し、約70人が残ったことについては、「本当は私、2F(第2原発)に行けと言っていないんですよ。福島第1の近辺で、線量の低いところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと」「よく考えれば(線量の低い)2Fに行った方がはるかに正しいと思った」と語っています。
吉田調書をめぐっては、本紙が5月に情報公開請求しましたが、政府は7月に拒否。市民グループが国に開示を求めて提訴するなど、公開を求める声が高まっていました。政府は吉田調書と同時に当時の菅直人首相や枝野幸男官房長官ら18人分の調書も公開しました。なかには日米協議などに関して黒塗りが多い調書もあります。