「しんぶん赤旗」
日本共産党
メール

申し込み記者募集・見学会主張とコラム電話相談キーワードPRグッズ
日本共産党しんぶん赤旗前頁に戻る

2014年8月2日(土)

2014 とくほう・特報

日本の侵略戦争

■第1回■ 東方会議から「満州事変」へ

「在留邦人保護」を口実に

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 mixiチェック

 来年は戦後70年の節目の年を迎えます。それを前にして、安倍政権は日本をふたたび外国で「戦争をする国」にする解釈改憲の道に踏み出しています。このときにあたり、戦前に日本軍国主義が朝鮮半島・台湾を植民地として支配し、中国大陸を侵略、さらにアジア・太平洋戦争へと拡大していった「日本の侵略戦争」の歴史を4回シリーズでふりかえります。第1回は、「東方会議から『満州事変』へ」です。


 日本が朝鮮半島の植民地化に続き、本格的に中国大陸への侵略を始めるのは、1931年の「満州事変」からです。その「満州事変」=中国東北部への侵略は、どんな理由ではじめられたのでしょうか。

中国侵略決めた

 靖国神社は、「満州事変」の始まりを「満州における排日運動と在満邦人の危機感が関東軍主導の満州事変の契機となり、満州国の建設となった」(遊就館図録、2008年版)と説明します。中国の民族意識の高まり、排日運動が、日本人の危機感を増大させ「満州事変」は起こったといいます。

 日本の中国侵略を決定づけたのは、1927年6月〜7月の「東方会議」です。当時の田中義一首相・外相が主催し十数日間開いた会議で、軍部と政府・外務省の首脳が一堂に集まり、中国大陸への積極的な介入を決めました。

 「シナにおける帝国の権利利益並びに在留邦人の生命財産にして不法に侵害せらるるところあるにおいては、必要に応じ断固として自衛の措置に出でてこれを擁護するほかなし」(東方会議「対支政策綱領」に関する訓令)

 侵略の口実として日本の「権利利益」(権益)と「在留邦人の生命・財産」の侵害をあげています。

 日本の権益とは、日露戦争(1904〜05年)後にロシアから奪った南満州を縦断する鉄道(南満州鉄道、いわゆる満鉄)の使用・管理の権利などです。日本はその権益を守るため関東軍=中国東北部に駐留した陸軍を南満州に駐屯させます。

 日本近現代史が専門の山田朗(あきら)明治大学教授は「英米協調的な外交路線を投げすてた膨張主義の路線を決めたのが『東方会議』でした。日本は同時期に、中国国民政府軍の満州への接近阻止と山東半島の権益擁護のために3度の山東出兵を行います。本格的な戦争でしか動かさないような大規模な軍隊を山東省におくりました。満州ではなく近接する山東省に予防的に大軍を派遣するのです。さらに軍部はそれまで軍に協力してきた張作霖を謀略によって爆殺します(張作霖爆殺事件)。この事件は未遂に終わった『満州事変』です。混乱に乗じて『満州』を占領してしまうのが目的でした」

 日本政府は、東方会議で「満蒙(まんもう)」(満州と内モンゴル)を中国「本土」と区別して特別な地域、すなわちこの地域を日本が“大国に対抗して発展していくための生命線”と位置づけ、自ら支配するという方針を確立しました。これが「満蒙生命線」論です。

 東方会議に先立つ5月に、関東軍高級参謀の板垣征四郎(後のA級戦犯)は講演で、日本の「生存」のためには「原料の補給地ならびに成品の販路を確実に自国の勢力下に置くにあらざれば世界の大国に伍(ご)して国民の経済的生存を確保することを得ざる」として「これ(満州)を領土とするを当面の急務といたします」(「満蒙問題に就(つい)て」)と述べていました。

「神速なる行動」

 1931年9月18日、関東軍は南満州鉄道の線路を奉天(ほうてん)駅の近くで爆破し(柳条湖事件)、これを中国人の攻撃だと偽って、軍隊を出動させ朝方までに奉天市を占領するとともに、南満州鉄道沿線の全線で出撃し、主要都市を占領します。先の講演で板垣が「疾風(しっぷう)のごとき神速(しんそく)なる行動」で目標を達成すると述べていましたが、その筋書きどおりことを進めました。

 「満州事変」が始まって半年ほどの間に遼寧省、吉林省、黒竜江省の東三省の全域を占領し、32年3月、ここにかいらい国家「満州国」を建国します。

 政府は「中国軍隊の一部は南満州鉄道の線路を破壊し我が守備隊を襲撃しこれと衝突するにいたれり」(満州事変に関する政府第1次声明)と、中国側に責任があるとする声明を出し、関東軍の行動を正当化しました。

 「満州事変」を機に日本国内での軍部の影響力は強まります。当時の商業新聞は関東軍の「成功」を大々的に報道します。

排日感情の原因

 当時の中国の対日感情は確かに悪化していました。その原因は、日本が武力でロシアやドイツから奪った「満州」や山東省の「権益」を維持・拡大したためです。排日運動は、日本が日清戦争、日露戦争などで中国から奪った租借地の返還を求めたり、不平等条約の撤廃を求めるなど主権回復の運動でした。

 中国近現代史が専門の久保亨信州大学教授は「日本が中国で権益の拡張をしなければ、排日運動は起きませんでした。排日運動が強まった一因は、権益拡張の波に乗った居留日本人の激増です。1920年代には都市部を中心に毎年1万人以上の規模で居留日本人が増えていくのですから、中国側は平穏ではいられません」と述べます。

 久保氏は「在留邦人保護」を理由にした軍隊の駐留が、次の侵略の火種になっていったと指摘します。

 「在留邦人保護を目的とした中国への軍隊駐留は、欧米列強の侵略に反対する排外主義的な民衆蜂起の『義和団事件』(1900年)に始まります。他国の駐留軍が規模を縮小する中で、1936年に日本は以前は数百人規模の駐留軍を5800人規模に拡大しました。この軍隊が37年に、日中全面戦争の発端となる北京郊外での軍事的衝突、盧溝橋事件をひき起こします」

 もともと中国の人々の対日感情は、悪くはありませんでした。中国側に近代化のモデルとして日本から学ぶという気持ちがあったからです。久保氏は「中国から毎年1万人くらいの留学生が来ていた時期もありました。日本が山東や満州などの権益を格段に拡張しようとする『21カ条の要求』を出してから対日感情は悪化します」といいます。

「自衛」と正当化

 当時の日本政府は、侵略行動を「断固とした自衛の措置」と言っています。そう主張したのは、国際社会が第1次世界大戦の反省をふまえ、パリ不戦条約(1928年)などに代表される「侵略戦争」を禁止する動きへの対応でした。山田氏は「政策の手段としての戦争を禁じ、自衛戦争以外は違法であるとなります。日本陸軍は、自衛という理由さえ立てば、どのような軍事行動も可能であると考えました」と述べます。国際的な平和の流れに逆らう「口実」でした。(若林明)


 対華21カ条の要求 第1次世界大戦に参加し、ドイツの持っていた山東省の青島などを攻撃・占領した日本が戦争中の1915年1月に中国政府に突きつけた要求。南満州と東部内蒙古や山東省の支配権の引き渡し、各種の経済的特権、多数の日本人の政治・軍事顧問の配置などを求めました。


■満州事変関連年表

 1914年 第1次大戦開始

   15年 日本が「対華21カ条の要求」

   19年 中国で五・四運動

   27年 第1次山東出兵、東方会議

   28年 張作霖爆殺事件

   31年 満州事変

   32年 かいらい国家「満州国」、五・一五事件

   33年 日本が国際連盟脱退

地図:満州事変

見本紙 購読 ページの上にもどる
日本共産党 (c)日本共産党中央委員会 ご利用にあたって