2014年4月10日(木)
「理論活動教室」 講師・不破哲三社研所長
●第1講「日本共産党の理論活動史」(前半)
科学的社会主義の本来の姿
日本共産党の理論的な到達点を継承し、理論活動の後継者を養成するために、「理論活動教室」(月1回)が8日、党本部で始まりました。20、30代の参加者が目立ち、党本部、都内、首都圏の党員ら450人が参加しました。
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講師は、不破哲三・社会科学研究所所長。不破さんは、この教室を計画した動機の一つに、この4月でソ連共産党との公開論争を始めてちょうど50年目に当たることをあげました。党が今日のような理論的到達を築くまで、何を開拓し、どこを努力したか、その発展の過程をつかむことが今後の理論活動に役立ち、時代の要請に応えてさらに理論的発展の展望を開くことになると述べました。
いま世界の資本主義は矛盾と危機が深刻なのに、ほとんどの国で科学的社会主義の党の姿が見えていないのは、多くの党の理論がソ連からの借り物だったからだと強調。日本共産党は、ソ連や中国・毛沢東派の干渉主義と実際にたたかっただけでなく、スターリン以来の「マルクス・レーニン主義」とはまったく違う科学的社会主義の本来の姿を取り戻してきたと、50年間の理論的発展の世界的な意義について話しました。
反共主義の強い日本で、党が攻撃をはね返し「第3の躍進」を切り開こうと奮闘しているのは、50年間の理論の力があり、「社会主義をめざす国」からも注目されていることを紹介し、「たたかいの中でつくり上げてきた理論を、どのように到達したのか、どういう問題を、どのように乗り越えてきたか」、そのプロセスを分かってもらいたいと参加者によびかけました。
「50年問題」を総括 自主独立の立場確立
この日は、第1講の「日本共産党の理論活動史」の前半です。
不破さんは、戦後直後の出発点の状況を説明し、第2次世界大戦の勝利に貢献したソ連や目の前で革命を成功させた中国の理論を日本共産党が絶対視する傾向が強かった当時の政治状況を解説。不破さん自身「世界史を学校で習わず、ロシア革命の歴史だけは詳しかった」と、当時の「事大主義」の傾向と雰囲気を伝えました。
その中で起こった「50年問題」について、日本共産党批判の「論評」(50年1月)を書いたのがスターリン本人で、野坂に批判を集中したのは、実はモスクワが派遣した工作者として、自分の役目をしっかり果たせという指示だったと解説。それ以後引き起こされた党の分裂、武力革命路線など「50年問題」のあらましを述べて、この事態から抜け出し、苦難の体験を全面的に総括する中から、自主独立の立場を確立したことを強調しました。
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「相手がどんな歴史をもった大国であっても外国の党の介入を許さない。日本の革命運動の問題、政策の問題は日本の党自身で考え、決定する。これが、党の原点中の原点です。当時、多くの党がスターリンからの干渉を受けましたが、資本主義国の党で、この結論を引き出した党は、日本共産党以外ありませんでした」
当時国会で1議席しかなかった日本共産党が、自主独立の立場で奮闘した実例を、1960年の81カ国の国際会議の予備会議を例に紹介。宮本顕治さんが奮闘し、アメリカ帝国主義の評価や発達した資本主義国での民主主義革命の路線など80余の修正案を出し認めさせる活躍で、日本共産党が世界の運動の中で有名になったことも付け加えました。
61年のいわゆるキューバ危機のあと、ソ連が米ソ協調路線に踏み出し、アメリカ帝国主義の侵略政策の問題で意見の違いが広がります。日本共産党は、独自の分析で、当時のアメリカの政策をソ連と協調しながら侵略の矛先を別の国に向ける「各個撃破政策」と特徴づけ、反帝平和の独自の闘争をすすめました。それに公然と非難の矛先を向けたのが、50年前の64年4月、モスクワが送りつけてきた「ソ連共産党中央委員会の書簡」で、続いて、党内の一部の分子をおしたててソ連派の「ニセ共産党」づくりをたくらむという干渉攻撃がはじまりました。
当時の「アカハタ」紙上には、ソ連の干渉攻撃の理論立てを打ち破る論文が次つぎと発表されました。なかでも、最大のものは、ソ連の攻撃書簡に反論した「ソ連共産党中央委員会への返書」でした。不破さんは、当時の『アカハタ』縮刷版をかざして、通常8ページ建てだった紙面に、10ページにものぼる長文の書簡を掲載したと説明、手紙という性質上、中見出しもない長文だったが、「全党が必死になって読んだものです」と語りました。
ソ・中 二つの大国の干渉と「名誉ある闘争」
話は続いて、66年のベトナム、中国、北朝鮮の3国の党との会談と、それに続く中国・毛沢東派の干渉攻撃にすすみます。
「問題は、いまふうに言えばベトナム侵略戦争反対の『一点共闘』の問題でした」。64年8月、日本共産党の警告通り、アメリカがベトナム侵略の戦争を開始したのです。日本共産党はソ連とは干渉反対の大闘争のさなかでしたが、この問題では、世界の平和勢力が大同団結して国際統一戦線を組むべきことを提唱しました。ところが、中国が、いま必要なのは、「反米反ソ」の統一戦線だといって、この問題でもソ連との「共同行動」は絶対ダメだとがんばるのです。
この障害を取り除くために計画したのが、66年2月〜4月、延べ2カ月にわたる3カ国訪問でした。不破さんは、3国との会談の状況を、エピソードを交えて、語りました。中国にわたる船のなかで、代表団10名の全員が会談のテーマにかかわる問題別のレーニンの文献集を回し読みした話は、会談の真剣な準備状況を生きいきと物語る話でしたが、その文献集とは、実は、不破さんが出版元の屋根裏に積んであった全集の乱丁本のなかから全巻を手にいれ、そこから引き抜いて編集した抜粋集でした。手製抜粋集の何冊かを手にもってこの裏エピソードを語った時には、笑いの渦がおこりました。
この訪問は、日本共産党とベトナム共産党との深い同志的団結の起点となりましたが、中国では、最後の毛沢東との会談が決裂で終わりました。そればかりか、毛沢東は、それ以後、国内では「文化大革命」の名で自分の専制支配の確立をめざす暴力的な大動乱を起こすとともに、国外では、とくに日本共産党を最大の攻撃目標として、ソ連を上回る無法な攻撃を加えてきたのです。
不破さんは、この闘争で最大の理論的な武器になった論文として、「極左日和見主義者の中傷と挑発」を紹介し、それを関連文献とともに収録した当時の雑誌『世界政治資料』を示しました。このなかで議会の多数を得ての革命の道が、マルクスの時代にも革命の大道の一つとされていたことを明らかにするために、当時まだ全集に収録されていなかったマルクスの文献を苦労して手に入れたエピソードを語りました。
「なぜ、二つの大国の党が日本共産党を同時並行的に攻撃をしたのか」。何ものも恐れずに自主独立を貫く日本共産党を恐れたからで、放っておいたら彼らの覇権の野望が実現できないからと解明し、「名誉ある闘争だった」と振り返りました。
不破さんは最後に、この闘争が日本のどのような国内条件でおこなわれたかについて語りました。60年代のかなり遅くまで、マスメディアでは、日本共産党の存在と活動はまったく無視されるのが普通でした。新聞社でも、共産党は警察・公安関係から取材する社会部の担当で、政治部には日本共産党担当の記者がいませんでした。ソ連や中国の干渉との闘争についても、ほとんど黙殺されて、たまにまとまった記事が出ると、“「自主独立」どころか「自主孤立」ではないか”といった、逆に干渉者の肩をもった冷やかし記事、これが普通という状態でした。
こういう中で、全党が奮闘し、二つの干渉主義をみごとに粉砕するとともに、困難が集中した1960年代のこの時期に大きな党をつくり上げ、69年の総選挙では、前回の5議席を大きく上回る14議席を獲得し、占領下の49年の躍進から数えれば20年目に、国政に一気に大きな足場を築いたのでした。