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2013年12月20日(金)

『古典教室』第3巻を語る(下)

第5課 マルクス、エンゲルス以後の理論史

曲折の歴史をへて 科学的社会主義の大道へ

レーニンの時代、スターリンの時代

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(写真)党社会科学研究所所長 不破哲三さん

レーニンの理論活動では“最後の3年間”が注目される

 山口 第5課の「理論史」は、不破さん自身がはじめての試みだといっているところですが、レーニンから始めましょうか。

 不破 レーニンは、マルクス、エンゲルスを懸命に読み、それを現実に生かすとともにその現代的発展に貢献した第一人者ですが、理論史的にはなかなか複雑なものがあるのです。

 一つは、その理論活動の歴史に、独特の“荒れた時期”―10月革命後、干渉戦争と戦った時期です―があることです。そのあと、1923年3月に再起不能の重病に倒れるまで、私が“最後の3年間”と呼んでいる時期には、その理論的活力を驚くほど多彩に発揮して、国内建設の面でも、対外政策の面でも、国際共産主義運動の指導の面でも、新しい境地を切り開きました。

 もう一つは、レーニンは革命論を他の誰よりも重視したのですが、この面でのマルクス、エンゲルスの理論的な遺産をごく部分的にしか受け継げず、とくに多数者革命論にかかわるものはほとんど読むことができなかったことです。『国家と革命』で、武力革命が革命の原則だという結論をひきだしたのも、そこに大きな背景がありました。干渉戦争中の“荒れた時期”には、さらに極端になって、革命勢力が権力を握る前に多数者になることは原理的に不可能だということまで断言するようになります。“少数者革命”論への逆戻りでした。

 ところが、そのレーニンが、干渉戦争が終わって国際的な平和関係を確立したあと、内外政策の総点検にとりかかり、世界の革命運動の指導のうえでも、「多数者獲得」や「統一戦線」政策など、実に鮮やかな転換ぶりをみせたのです。コミンテルンの第3回大会(22年)や第4回大会(23年)が、路線転換の大きな舞台になりました。

レーニンの「過渡的要求」論は現代につながる

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(写真)神戸女学院大学教授 石川康宏さん

 石川 この時期のレーニンの探求の中で重要だと思ったのは、「過渡的要求」についての提起でした(コミンテルン第4回大会)。発達した資本主義国での革命は、どこでも社会主義革命なのだといった決めつけではなく、その国の情勢に見合った「過渡的要求」の探求が必要だと述べていたわけですね。その後、1960年の共産党・労働者党による国際会議では、スターリンの「理論」を引き継いだ人たちが、当面の革命は社会主義革命でしかありえないとくり返したのに対し、日本共産党の代表が民主主義革命の必然性を対置して議論になるわけです。その日本共産党の立場が一方でスターリン「理論」の批判となっており、他方でレーニンのこの探求に歴史的に連なるものであったことは、今回はじめて知ったことでした。

 不破 レーニンの「過渡的要求」というこの問題提起には、明らかに多数者革命路線につながるものがありますね。コミンテルンでもレーニンがこれを提起した時には、“社会主義革命の綱領があれば中間的、過渡的な綱領などいらない”といってがんばる“左翼派”もいたと言いますから、そこには、60年の国際会議での討論を思わせる光景があったわけですよ。

スターリン問題―決定的な変質をおさえることがカギ

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(写真)党社会科学研究所副所長 山口富男さん

 不破 スターリンの問題は、ことの性質がまったく違うのですね。レーニンの場合には、誤った議論を展開したことがあっても、それは歴史的な制約のもとでの理論上の誤りであって、社会主義の事業にたいする立場も、マルクスの理論への信頼にも、なんの揺るぎもないのです。だから、“荒れた時期”があっても、情勢が新たな展開をした次の時期には驚くような理論的活力を発揮して見せる。

 ところがスターリンは、根本の姿勢に異質なものがありました。とくに重大なことは、スターリン自身が、30年代に社会主義の事業とは無縁な存在に決定的に変質していたことです。その決定的な転機を画したのは、30年代の「大量テロ」だとみるべきでしょうね。国際的には覇権主義、国内的には専制主義のスターリン体制をつくりあげるために、ソ連の党の幹部、政府と軍の幹部、外国の共産党の活動家などを、何十万という規模で殺したのですから。これは社会主義の精神をひとかけらでも残している人物には絶対にやることができない、最悪の犯罪行為でした。

 ここを押さえないで、共産主義運動のなかで起こった理論上の誤りのように扱ったのでは、スターリン問題を根本から片づけることにならないと思っています。

 山口 スターリンについて、私がこういう人物だなと思ったのは、彼がソ連の体制を絶対的なモデルにして「全般的危機」論に彩られた革命論を打ち出したときに、本音として革命の自主的な発展を毛嫌いし恐れるわけですよね。そこに社会主義とも革命とも無縁な彼の立場を痛感しました。

スターリン「理論」が影響力をもった根拠はどこにあったか

 不破 スターリンのいう「マルクス・レーニン主義」が戦後の運動のなかで、国際的な影響力をもったというのは、第2次世界大戦の経過とも関係があるのですね。ソ連が反ファシズム陣営に加わってその勝利に貢献した、とくに無敵とも思われてきたヒトラー・ドイツを打ち破った主役がソ連だったことは、誰でも知っている事実でした。そのことが、世界で最初の社会主義国家ソ連の指導者ということと重なり合って、スターリンとその理論を飾り立てる“栄光”となったのでした。私たちも戦後、党に入った時には、その事実を前にしてすごい指導者だと思いましたからね。

 ところが、これは「スターリン秘史」でもこれから『前衛』で連載する部分の予告編になるのですが、第2次世界大戦の最初の段階では、スターリンはヒトラーの同盟者として行動し、ヨーロッパの領土分割合戦の仲間入りをしています。スターリンの思惑では、その次の段階では、ドイツ、イタリア、日本の3国軍事同盟に加盟して、大英帝国崩壊後の世界再分割の仲間入りをするはずでした。しかしこの話は、ソ連を騙(だま)し討ちにするためのヒトラーの謀略でしたから、41年6月、スターリンはヒトラーの不意打ち攻撃をうけ、思惑が外れた形で反ファシズム陣営の一翼を担う形になりました。その勝利が“栄光”となって、大戦後にスターリンの政治的、理論的“権威”を高めたのですから、歴史はなかなか皮肉なものです。もしスターリンの思惑がはずれないで、ヒトラーとの同盟による世界再分割の道を進んでいたら、スターリン流「マルクス・レーニン主義」など、世界の運動のなかで早くから存在の余地がなくなっていたでしょう。

日本共産党の理論闘争史理論的発展の原点は自主独立の立場の確立

 不破 「理論史」の最後の部分では、「日本共産党の理論闘争史」としました。

 日本共産党はいま、マルクスが基礎づけた科学的社会主義の理論を自主的に発展させてきた点で、世界の運動のなかでも独自の地位を占めているのですが、私は、その原点は、50年代にソ連、中国の干渉による痛苦の経験から教訓をひきだして、自主独立の立場を確立したところにあったと思います。

 スターリンの覇権主義の被害を受けた党は世界で多いのですが、そこから自主独立の立場―どんな問題でも他国の共産党の干渉は許さず、自分の頭で考え自分で答えを出す―、この教訓を引き出して、それをあらゆる活動の根本に据えたのは、資本主義諸国の党のなかでは日本共産党以外にはないのです。

 私たちは、はじめから、ソ連流の理論体系全部を相手にまわすといった形で理論活動を始めたわけではありません。まず日本革命の戦略・戦術を日本自身の頭で考えて決める、という態度をつらぬいたのが最初でした。それにたいしてソ連を中心にした諸党が、1960年の国際会議で、社会主義革命路線を押しつけようとしてきたわけで、これとの徹底論争で自分の立場をつらぬきました。

 次の段階では、アメリカ帝国主義の評価が論争の中心問題になりました。60年の国際会議でアメリカの戦争政策の危険性をあれだけ強調したのに、ソ連が「米ソ共存路線」に転向して、もはやアメリカ帝国主義の危険性はなくなったと言い始め、日本共産党がそれに同調しないと、64年、日本共産党批判の長文の書簡を送りつけ、同時にソ連に無条件服従の分子を集めて反党分派の旗揚げまでさせたのです。私たちは彼らがあげたすべての論点を論破する長文の書簡を送って反撃しました。

中国・毛沢東派との論争。「二つの戦線」での闘争

 不破 続いて起こったのは中国との論争です。ことの始まりは66年、ベトナム侵略戦争に反対する国際統一戦線の問題をめぐる両党会談での意見の違いにあったのですが、会談後、毛沢東派が中心になって日本共産党攻撃を開始した時には、攻撃の主内容は、レーニンの『国家と革命』を振りかざしての日本共産党の革命論への非難でした。

 世界の共産党のなかでも、ソ連と中国の双方から同時に干渉攻撃を受けた例は当時ありませんでしたが、私たちは、これへの反撃を「二つの戦線での闘争」と位置づけ、党の死活がかかる闘争として全党が文字通り全力をつくしたものです。

 論争の論点も多面的に広がり、いや応なしに理論的にも鍛えられましたね。この闘争のなかで、干渉主義反対はもちろんですが、革命論、社会主義論までふくめて、従来の定説、いわゆる「マルクス・レーニン主義」全体を総点検する必要があるところに一歩一歩進んでいったのですが、それに本格的に取り組むのは70年代になりました。

論戦の一つ一つが“真剣勝負”だった

 石川 そういう国際論争の開始の時期から、すでに半世紀近い時間が経過しているわけですね。

 ところで政治的に自主独立の立場をとるということと、自主独立の立場できちんと理論的な成果を生み出すことができるということは別問題です。その点で日本の共産党が、いま紹介のあった国際論争などの中で着々と理論の積み上げを行い、さらに70年代に入ると創造的探究ということで、より自覚的に理論の全面的な点検に進んでいくわけです。そこの自主独立の気構えだけではなく、それにもとづいて豊かな理論的な成果をあげることができたのはなぜなのか、その点、渦中におられた不破さんにお話いただければと思います。

 不破 まあ歴史の必然ですね。(笑い)

 石川 その一言ですか…。(笑い)

 不破 国際論争について言いますと、一つ一つが真剣勝負なんですよ。ソ連との論争にしても、送りつけてきた長大な書簡には日本共産党への非難・攻撃の論点が限りなく並べられています。それへの反論となると、そのすべての論点を一発勝負で撃破しなければいけないし、相手方に反論の余地を与えるような中途半端な議論ももちろん許されません。中国の毛沢東派の革命論攻撃への反論にしても、これで完全に決着をつける力を持つだけのものが求められます。まず干渉攻撃との論戦で鍛えられたというのは、正直な実感ですね。

 もちろん、石川さんがいわれたように、自主独立の原点から、理論の発展がおのずから生み出されるわけではありません。国際論争に続く時期にも、われわれ自身がいろんな問題にぶつかりながら理論的な探究に力をつくしてきた。いま振り返ってみると、そこにはやっぱり歴史的な節目節目があるし、国際論争とは違った意味での真剣勝負が続きました。 

 石川 どんなところが節目になりますか。

 不破 国内の政治戦線でも、日本共産党の政治的比重が増してくると、日本の将来という問題でも日本共産党の見解がいや応なしに問われてきます。

 そういうなかで、70年の第11回党大会で宮本顕治さんが中央委員会報告のなかで、発達した資本主義国で社会主義に前進した経験は世界にまだない、それは「人類の偉大な、模索と実践の分野」であると発言しました。これは、ソ連型の「社会主義」を日本の将来のモデルとはみなさないということの宣言でした。ここには一つの新しい踏み切りがあって、この方向はこの大会での、反対政党の自由と選挙による政権交代を保障する政治的民主主義の体制についての決定とか、1976年の第13回臨時党大会での「自由と民主主義の宣言」に具体化されてゆきました。

国際的な定説扱いされてきたものを総点検する

 不破 もう一つの踏み切りの節目は、私たちの理論の呼称(呼び名)について、綱領・規約から「マルクス・レーニン主義」という呼称を廃棄した第13回臨時党大会の決定です。これは、実質的な内容から言うと、「マルクス・レーニン主義」の名のもとに国際的に定説扱いされているものを、科学的社会主義の本来の理論的立場を探究しながら、全体にわたって総点検するという意思表示でした。

 社会主義の問題も、発達した資本主義国の革命の独自性という角度からだけではなく、いま「社会主義国」として存在している国の問題も、理論的な総点検の内容には、当然含まれてきます。

 85年の「資本主義の全般的危機」という規定を党綱領から削除するという決定も、この総点検の成果の一つでした。これは、世界情勢の現実的分析を妨害するドグマを取り除いたという意義を持っていて、それ以後、世界情勢を現実の展開に即して分析・解明する視野が大きく広がりました。

マルクスの未来社会論の豊かな内容が浮かび上がってきた

 不破 日本共産党の理論闘争史の締めくくりの節目ですが、2003〜04年の党綱領の改定の時、私たちが一番苦労したのは、レーニンが『国家と革命』で展開した社会主義二段階論をのりこえることでした。これも、いわば問答無用の不可侵のテーゼとして扱われてきましたからね。

 しかし、よく研究してみると、これもマルクスの読み違えにもとづく誤ったドグマでした。この誤ったドグマを取り払って、マルクスの未来社会論そのものを探究してみると、第3課の最後のところで勉強したように、『資本論』などの著作で、マルクスは実に豊かな未来社会論を展開していることが浮かび上がってきたのです。

 ドグマから解放されて、マルクスの理論的遺産を発掘してゆくと、そこには現代を考え未来を展望する上で、実に豊かな内容があります。私たちは党綱領の改定にあたって、マルクスのこれらの遺産を現代的に適用することに力をつくしましたが、これも私たちの党が、半世紀前に自主独立の立場を確立し、それを活動の根底において活動してきたからこその到達点であることを確信しています。

 山口 こう議論してくると、マルクス、エンゲルスの理論を真剣勝負で学ぶということと同時に、それを発展させてきた日本共産党の、現在の世界的に独特の位置をもつ理論的達成を真剣に学んでいくことが大事だなと思います。

 石川 3回のてい談をふりかえって、科学的社会主義の四つの要素が併存するというだけでなく、その全体をまとめる上で革命論が要になっているというところが、一番印象に残りました。そういう角度からきちんと勉強をしなおさなければいけない。科学的社会主義の理論をとらえる時に、革命論についての学習、研究が希薄なままではだめなのだということが、あらためてよくわかった気がします。

 山口 『古典教室』の最後に、「これからも、古典の勉強をぜひ大いに続けていただきたい」とあります。不破さんの真剣勝負の話を聴きながら、私たちもこの3巻にとどまらないで、マルクス、エンゲルス、日本共産党の勉強をぜひつづけたいと思います。

 ―3回にわたってありがとうございました。


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