2013年2月19日(火)
漁師継いだ孫 奪った海自
あたご事件から5年 控訴審、近く結審
哲大さんの祖父 庭田重夫さん(81)語る
「裁判所はこんどこそ自衛隊の罪を認めてほしい。そうでなければ2人は浮かばれない」。2008年2月19日、千葉県房総半島沖で、海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船「清徳丸」に衝突、船長の吉清治夫さん=当時58歳=と長男、哲大(てつひろ)さん=同23歳=が死亡した事件。まる5年を迎え、哲大さんの祖父、庭田重夫さん(81)が、無念の日々を語りました。(山本眞直)
治夫さんの妻で、哲大さんの母、幸子さん(57)は庭田さんの娘。「幸子は子どものときの大病が原因で障害が残り、病弱。そんな幸子の子どもだけに哲大はよくできた、かわいい孫だった」。千葉県北部の自宅で、哲大さんの思い出を話しました。
悲しみ今も
幸子さんは事件後、実家の庭田さん宅で療養を続けています。2人を失った悲しみとショックから抜け出せずにいるといいます。
庭田さんにとっても同じこと。「事件の2日前に、哲大は勝浦からこの家に来ていた」
庭田さんは、勝浦市で漁に出る治夫さんたちから魚をもらう換わりに自家用で作る野菜や米をよく届けたといいます。08年2月17日、この日も哲大さんが、庭田さんからの連絡を受けて米を受け取りにきていました。30キロの米袋を二つ、車に積み込み、いつもの人懐こい笑顔と「じゃーね」の言葉が最後でした。
2人の遺体は見つからず、法律上の「死亡確認」で葬式をしました。骨つぼには骨はなく「遺品めいたものを入れただけの到底、受け入れられないものだった」
事件は2月19日午前4時6分すぎに起きました。横浜地方海難審判所(当時)は海上衝突予防法にしたがい、相手船(清徳丸)を右に見る船(あたご)が回避義務のある避航船であり、見張り不十分などから「あたご側に衝突の主因があった」と裁決しました。
一方、横浜地裁は、「清徳丸が直前に右転したことが原因」とする自衛隊側の主張を認めて、事故当時の当直士官2人(業務上過失致死、同危険往来の容疑)を無罪にしました。
検察は控訴。東京高裁でこれまで9回の公判が開かれ、昨年9月には一審でも行われなかった川津漁港での出張尋問も実施されました。被告側は公判で自衛隊に協力的な証人をよび、「清徳丸らは前日に飲酒して、居眠りをしていたのでは」などと証言させました。
庭田さんは、やりきれないといった表情でこういいました。「治夫さんは酒が飲めない人で盆栽が趣味だった。哲大もアルコールはだめ」
浮かばれぬ
哲大さんが漁師になるとき、相談に乗ったのが庭田さんでした。「高校2年生の頃だったか、『じいちゃん、俺、学校やめて漁師になり、お父さんの後をつぐよ』といってきた。高校を卒業してからで遅くないぞ、と言ったが中退して漁師を選んだ」
治夫さんが体を壊し、幸子さんも病弱だったから「親の役に立ちたい、という思いがあったんだよ」。
庭田さんは目をとじて、自らを励ますようにくりかえしました。「海難事故の専門機関である審判所の判断が正しい」「見張り不十分の自衛隊が無罪では2人は浮かばれない。海難審判と同じ判決がほしい」
控訴審は近く結審し、6月にも判決というヤマ場を迎えています。